
<016>からつづく
「ウェブ進化論」私的検証017---第一章 「革命」であることの真の意味 その2
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時の常識と次代を変える「力の芽」 p030
インテル、マイクロソフト、アップル、シスコ、アマゾン、ヤフー、グーグル。皆、最初は無から始まった。 p030
これらの企業については、私はすべて、有名になった後に知ったところばかりだ。敢えて言えばアップルは世代的にも、同時進行的に育ってきたとは言えるかもしれないが、それにしても、同級生が、とか偶然知り合った少年がのちのちは、とか、いう次元ではない。 皆、最初は無から始まった、というのは凄いが、よくよく考えてみると、松下幸之助でも、本田総一郎でも、ソニーや京セラでも同じことが言えるかもしれない。
始まったばかりのときの「力の芽」は、普通の暮らしをしている人からは目に見えないほど些細なことであり、そういうことに大騒ぎしている奴等はよほどの「おっちょこちょい」か「いかがわしい山師」に見えるものである。 p030
ここでもまた著者は物事を単純化する方法を採用している。「普通の暮らしをしている人」とは、誰をいうのか。「普通の暮らしをしている人」VS「力の芽」という対立構造を作って、著者は何を言おうとしているのか。本来、人の数ほど暮らしはあるのであり、「世界に一つだけの花」として、一人ひとりが生きているのだ。こういう対立構造を作ることによって、物事を理解しようとし、説明しようとする著者の姿勢は、必ずしも「山師」的とまでは言わないが、やや「おっちょこちょい」である、と私には思える。
「次の10年」を変える「力の芽」を考えるときに私が一つの拠り所としているのは、その「力の芽」が「持てるもの」によって忌避される類のものである一方、「もたざるもの」にとってはもの凄い武器であるときにその「力の芽」は着実に育つ、という判断基準である。 p031
ああ、この辺の記述が、まったく気にくわないとか、正当性がない、とはまでは言わないが、なんだか、軍記ものか、権力争奪戦の評論家の文章を読まされているようで、実にげんなりする。すくなくとも、著者が後段で触れるLinuxの創始者、リーナス・トーバルスの「Just for fun」(それが僕には楽しかったから)という哲学を紹介するには、あまりに歪曲しすぎていないなかなぁと、心配になる。
シリコンバレーでは、身の回りで常に新しい「力の芽」が生まれ続けている。シリコンバレーに生活拠点を移してまもない頃、私は気がついた。一つ前の世代の原理原則で動く仕事において失うものが大きくなるにつれ、新しい「力の芽」を面白がることができなくなり、それらを過小評価し最後は否定するようになる、ということに。だとすれば、大きな会社に勤めたままでは真にシリコンバレーにいることにはならずに、こお地の本当の面白さは実感できないと確信し、会社を辞めた。 p031
う~む、またまた、一つ前の世代の原理原則とか大きな会社とかいう曖昧模糊とした言葉が続出してゲンナリ。何をもって「一つ前の世代」とか「大きな会社」とかいうのか、ぜんぜん分からない。ここから類推するに、この著者は、某KO大学の一貫教育を受けたような「一つ前の世代が作ったエスタブリッシュメントな」環境に育てられ、なんの苦もなく「大きな会社」に勤めた人だったのだろうなぁ。
ある時、リナックスとかのオープンソースに出会って、そうとうに感激して、父親(かどうかしらないが)に反抗して(って30歳代中盤になってだろうが)会社をやめました、ってことなんだろうね。なんだか、お涙チョーダイ的な浪花節調になってきたぞ。すくなくとも、シリコンバレー的な表現ではないね。
たとえばオープンソースの場合も、リナックスの成功が証明された今でこそ、産業界で認知されるようになったが、勃興しつつある1998年段階では「過激な少数意見」に過ぎなかった。 p031
この辺の意見をいいたかったのなら、1998年に言ってほしかった。まぁ、すくなくとも事情がよくわからん私にも、今なら、この程度の評論文は書けるよ。まぁ、著者の意見が指し示す方向に私は賛成しているのだから、あんまり揚げ足取りは続けないことにするが、どうも、その辺の細かいところが、web2.0的ではないなぁ(笑)と、やや、冷やかしたくなるのは事実。
<018>につづく
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