
<017>からつづく
「ウェブ進化論」私的検証018---第一章 「革命」であることの真の意味 その3
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「過激な少数意見」 p032
この常識に真っ向から挑む「過激な少数意見」がオープンソースだった。オープンソースでは、ソフトの中核部分がインターネットで公開され、世界中のプログラマーたちが寄ってたかって新機能を開発し、性能向上させ、バグ修正し、完成度を高めていく。そのプロセス全体がオープンになっている。彼ら彼女らは誰からも強制されない。一円も貰わず、ただただ「好きで楽しいから」素晴らしいプログラムを書く。そういうソフト開発のほうが、一企業の閉じた環境の中で開発されるソフトよりも遥かに素晴らしいものを生むと、オープンソース信奉者達は言った。 p032
オープンソース信奉者達は言ったとまでいうなら、やはりRMS(リチャード・M・ストールマン)をキチンと紹介しておかななくてはならないのでは・・? 信奉者達と教祖さまという関係ではないにしろ、まずその過激中の過激、ある意味、最初のたった一人の狂人とも言えるのがこのRMSだったのかもしれない。著作の「フリーソフトウェアと自由な社会」も決して読みやすい書物ではないが、私にとっては、宝物の一冊になっている。
しかし、それから7年以上が経過し、オープンソースは「過激な少数意見」から「時の常識」になった。従来のソフトウェア開発の常識からすれば絶対にあり得ないやり方、つまり、スペックもない、製品計画や製品戦略もない、開発工程管理もリリース計画もないインターネット上のバーチャル大規模開発プロジェクトから、現代で最も複雑な構築物が生み出され、しかも日々進化を続けるという不思議な事実は、認知されたのである。 p033
この不思議な事実は、単にコンピュータ上のソフトだからできたのだろうか? 私にはこのシステムがとてつもなく美しく見える。この不思議な事実がどこまでも拡大し、人類の普遍的な常識、とさえなってほしいと願っている。このシステムをかんがみる時、ある時期のOshoのアシュラムのおけるセラピーの発展過程を思い起こすことがある。そして、コンピュータの一ユーザーではあっても決してこの業界人でもその技術者でもない私の夢は、このシステムが精神世界にも波及し、より未来的なスピリチュアルな世界が湧き出てくることだ。(しかしそれについての言及は、あまり先を急がないことにする)
70年代から80年代前半にかけては「パソコンなどというオモチャが情報システムとして使われるわけがない」、これが常識だった。90年代前半には「インターネットのような中央管理機能のないいい加減なネットワーが、情報スーパーハイウェイであるはずがない」、それが常識だった。 p033
そうだね。そのとおり。しかし、直感的にその可能性を見抜いた人たちも多くいたし、その可能性に賭けて夢を追いかけてきた人たちも多くいた。いまや過去の常識がひっくり返ってしまった、というのは事実だ。
しかし、起業家のエネルギーと技術革新の進行は、巨大なパソコン産業やインターネット産業を生み出し、世界が変わった。それと同じことが、オープンソースを巡って今起きているのだ。 p033
ちょっとヒヤッとするのは、起業家のエネルギーと断定してしまうことだ。著者は前段で、彼ら彼女らは誰からも強制されない。一円も貰わず、ただただ「好きで楽しいから」素晴らしいプログラムを書くと言ったばかりではないか。彼ら彼女らは決してベンチャー企業の起業家たちではないし、巨大企業を作って産業を生み出そうとしているわけでもないのだ。
それと同じことが、オープンソースを巡って今起きているのだ。 さぁ、ワクワクするねぇ。こうこなくっちゃ、いけない。
<019>につづく