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カテゴリ:地球人スピリット
「月と六ペンス」 ウィリアム・サマセット・モーム著 1978 加藤 輝男訳 岩崎書店 B6判 / 313p 諜報部員もやっていたというモームが、天才画家ポール・ゴーギャンの人生の伝聞録としてまとめたものが、この小説だという。これまでゴーギャンの人生とは、南洋の島の青い海と明るい日差しの中で、現地の綺麗な人たちに囲まれて、アブサンを飲みながら、絵を描きつつ楽しくまっとうしたものと、なんとなく思っていた。 この小説、必ずしも伝記ではなく小説なのだから、このままのストーリではないにせよ、しかしゴーギャンの絵を見ながら、この小説を読むと、そのど迫力に圧倒される。発表されたのが、1919年、モームが45歳の時だという。ゴーギャンは、 1848年6月7日 - 1903年5月9日の55年間の人生だったわけだから、もう100年以上も前の人だ。 イギリスの無口な株式仲買人、パリでのまったく無名かつ極貧の中での画家生活、タヒチに乞食のようにたどり着き、島の人々に愛されたり忌まれたりしながらも絵を描き続けたストリックランド。そして最後は、ハンセン病に冒されて、目が見えなくなりながらも、自分の絵に囲まれながらジャングルの中で息絶えていく最期。 このような人生の是非を問うことは、倫理観や道徳観では計り知れないことである。よき家庭人でもなければ、マスコミにちやほやされるアーティストでもない。決して癒しを求めて自らの中に引きこもった人生でもないのだ。自らの中に湧いてくる情熱を絵の中に探求し続けた人生だった。 この小説にかぎらず、ゴーギャンについてはその書簡集も含めていくつかあるようだから、今後すこし読んでみる機会もあるだろう。Oshoはゴッホについて語っていたので、ゴッホと交流があり一時一緒に住んでいたゴーギャンについても、触れているかもしれない。 ゴーギャンの時代に、ゴーギャンのような人生を送った人はそう多くなかったであろう。でも、この現代ならどうであろうか。ライフスタイルとして、それに近しい生き方をしている人は、自分の身の回りを見るだけでも、そんなにめずらしくないような感じがする。 証券会社のサラリーマンとして一生終わる人。その人生を中年になってすてて、家庭もすてて、絵を描き始める人。極貧の中で芸術を求める人。放浪する人。南洋の島に移る人。現地で暮らし、すっかり日本や友人たちを忘れきっている人。そして、人知れず名もなく客死していく人。 ふと自分の身の回りを見渡すだけで、この部分は誰に似ている、この部分は彼だ、と、なんともリアリティを持って、この小説を読むことになった。友人の誰かに似ている。だが、この主人公の中に巣くう精神は、外側の変化や移ろいと比較して、まったく変わらない。一貫して芸術への情熱を燃焼し続けるのである。 「月と六ペンス」というタイトルだから、さてどこかにその言葉が出てくるだろうと思っていたが、ついぞ出てこなかった。仕事の合間や夜ベットで半分うとうとしながら読んだので見落としたかな、と思った。きっと、最期は、わずか六ペンスの遺産を残して、月でも見ながら死んでいくのかな、とも思ったが、そうでもないようだ。 少年少女向けの本には、 「月」は、ストリックランドがとりつかれた、狂気のような芸術創造の情熱を象徴し、「六ペンス」とは、英国で用いられているあまり価値のない貨幣の単位であり、これは月とは逆の、ストリックランドが捨て去った平凡な社会生活や一般的な慣習を意味するものと思われる。 とある。 松岡正剛は、 言い忘れたが、題名の「月」は幻想をあらわし、「六ペンス」は現実をあらわしているらしい。 と言っている。 いずれが月で、いずれが六ペンスなのだろうか。 最近マイミクのコミュなどで話題になったOshoの「普通の生活をする」などと合わせて読んでいくと、意味深い。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.03.30 08:51:00
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