
地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく
「禅的生活」 <1>
玄侑宗久 2003/12 筑摩書房 新書 237p
先日読んだ「お坊さんだって悩んでる」の内容がまずまず(失礼!)だったので、この玄侑宗久和尚の小説をいつかは読んでみたいと思っていた。ところがこちらはあまり小説がすきでもないので、そうは言ったもののいつのことやらと思っていた。
ところが、さすが飛ぶ鳥をおとす勢いの和尚さんだけある。新書本でほかの本も出版されていた。前作はお寺の経営者たちのお悩み相談、という雰囲気だったが、こちらは「今あらためて考えると、自分の過去のすべてが、この本を書くためにあったと思える」p007とおっしゃるくらいだ。ひょっとすると、玄侑和尚の代表作(ということはないと思うが)とでも言っていいのかなぁ、と思ってしまった。
さて、この本を読んでいて、まず感じるのは、「結構、ベタだなぁ・・・」ということ。このベタという言葉、実はあまり使い慣れていない。先日読んだしりあがり寿の著書でその意味を初めて知ったので、ちょっと使いかたを間違っているかもしれない。
走り読みしたので正確ではないが、AからBを導き出すとき、当り前であって意外性のないところ、そういうところを笑ってしまおう、というのが、ベタな笑い、というのだと思った。そして、シュールな笑いとは、とてつもない意外性を意外性として驚きながら笑う、と、そういうことではなかったかと思う。いずれにしても(笑)マークが必要なようである。
で、この玄侑和尚がベタだなぁ、と思うのは、たぶんいままでの、似たような僧侶文学者(とでも呼んでおこう)に比較して、あまり濃淡のない、のんびりした論説だなぁ、と感じるところから来ているに違いない。かつての高田好胤とか今東光とまではいかなくても、松原泰道和尚などにしても、一般のお寺さんの住職でありながらも、結構、文章を作っていて、おや、と驚くようなことが多かったと思う。
だから、これらの「シュール」な和尚さんたちに対して、玄侑和尚は、あまり作っていない。ありのままだ。おいおい、それでいいの、というくらい淡々とされていらっしゃる。2冊の新書本を読んだだけで、そんなことを判断してはいけないが、もし、言えるとすれば、この淡々としているところこそ、現代日本の中の禅僧として一般的にも評価されているゆえんなのかもしれない。
むしろ、私たちは、宗教や精神世界にシュールなことを求めすぎてきた嫌いがある。ベタな麻原だったら、あのオウム真理教事件はおきなかったであろう。ほかの新興宗教ブームやニューエイジ・ムーブメントの中にあっても、結構シュールな世界への橋渡しとして自らをとらえている宗教人たちの顔が見えかくれする。例えば、美輪明宏とか江原啓之とかね。
ところが、この玄侑和尚、どこまでもベタだ。シュールであることを意識して排除しているのではないか、とさえ思える。この辺については、今後の研究課題だが、その彼の小説とやらはどのような構造になっているのか、楽しみではある。
さて、禅とはベタなのかシュールなのか、と言えば、これは大論争になってしまうが、基本的には禅からはシュールな部分は排除できない、とするのが妥当であろう。むしろ、シュールであってこそ禅である、と思っている向きだって必ずいるはずだ。
まず彼は「自分をみくびらない」p012が大切だとおっしゃる。ところがp037あたりになると、「まぁいずれにしても私が悟っていないことは確かだから、本書でご案内できるのも悟りの周辺までであることはここでお断りしておく」となる。さらに「悟ってもいない私があれこれ話しても仕方ない」p069となるが、「我々は釈尊と同じ可能性をもっている」p097となり、「あなたも私も、じつはいつかは悟れるかもしれない」p105となる。
この辺から醸し出される世界が、彼の世界をベタと思わせるゆえんなのだろう。「世界で唯一の最終解脱者」などとシュールの極まで走ってもらわなくてもいいが、悟りというシュールな世界をどこまでもベタに語り倒すという彼の手法は、私には退屈だ。だが、ひょっとすると、現代社会では必要なのかのしれない。
これで一応「本来の面目」とか「不二」なる「無心」といわれる「お悟り」状態への旅は終わった。この旅が「住相」(おうそう)と云われるものだが、ここから我々は当然のことながら現実に戻ってこなくてはならない。その帰り道は「還相」(げんそう)と呼ばれ、さらに重要なのである。p126
どうも、玄侑和尚がベタなのは、住相の前半分と、還相の後半分が強調されているからなのかもしれない。「お悟り」というシュールな部分にかなりの部分を割きながら、どこまでもベタで押し通すのは、この本が、読者をどのような人達としてみているか、ということにも関係してくるだろう。
しりあがり寿によれば、表現しようとする人間の内部にはケダモノが住んでいるという。ところがそのケダモノには調教師もまた必要であるという。つまり、玄侑和尚においては、ケダモノの存在をちらつかせながらも、どうも調教師のマネージャー的な側面だけが眼についてしまうのだ。たぶん、彼は、そのケダモノの部分は、自らの小説の中で放し飼いにしているのかもしれない。ということはやはり、いずれは、彼の小説をいつかは読まなくてはならない、ということだ。
<2>へつづく