地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく
「パソコンで文章がうまくなる!」
鐸木能光2005/09 青春出版社 新書 205p
★★★☆☆
何をどう読むのか、という問題がある。メールが来る。それを読めば、当然、通常は返信をだす。SNSで、友人の日記を読む。当然、それにもレスを付けたくなる。コミュニティやフォーラムに参加する。誰かの意見を読む。なるほどと思いつつ、レスをつけるかどうか考える。あるいはふと出会ったブログに読み耽る。だがそこに書き込みをするかトラックバックするかは、なかなか決断できない。
基本的には、読むことと書くことは、表裏一帯のことであろう。それは右足と左足のようにセットになっているもので、一個の人間が歩いていくには、両方必要なことであるに違いない。
あれ? 読むことと書くことは、目と口、のように別々な機能なのでないか、という声も聞こえそうだ。呼吸のように吐いたり吸ったり、反対方向のことなのでないか、ということも考えられる。
しかし、例えば誰かの文章を読んでいる時に、すでに私の中では、その文章に対する意見が湧きあがっている。自分の中でどのような感想が湧きあがるのか楽しみながら、他人の文章を読んでいる、と言ってもいいかもしれない。きちんとした文章化はしていないが、明らからに、読みながら、すでに書く準備をしている自分がいる。
さて、それでは、書いている時は、どうか。ただただ書いているわけではない。書きながら、自分の文章を読み直している。自分なりに読み直しながら、本当に好き勝手なことを書いているわけではない。実は、自分自身が想定読者になりながら、書き手の自分の目とはまた別な角度で自分の文章を読み直している。つまり、書きつつ、読んでいるのである。
だから、私にとっては、読むことと書くことは、表裏一体、二本の足の、右足と左足のようなものだ、というのもまんざら間違ったアナロジーではない。
さて、それでは何を読むか、となった時、自ら書くことを前提として読むのであれば、自分の書きたいことにつながるものを読む、ということが必要になってくる。かつて書き込みしていた2chにも、最近またアクセスしてみた。ubuntuについてきた、おちゅ~しゃ、というアプリがなかなか可愛かったせいもある。
だが、どうも私には、あそこに読み書きする場というものは、作れない。というより、SNSにおいても、あるいは、個人メールにおいても、最近、どうも読み書きで熱中できなくなってしまっている。これはどうしたことだろう。
最近、もっぱら新書本ばかり読んでいる。これは、自分の中で何か書きたいことをプロボークするために、そのような手段を選択しているようなのだ。自分の意見と同じものも当然読むし、反対意見や、まったく理解できそうにないものも読む。しかし、それは、その本に中心があるのではなく、自分のほうに中心がある。だから、対象はあまり関係ないのだ。
新書本を書くような人はほとんど、書くことのプロだ。しかも数百ページ、一貫した論旨を持っている。それについて、私がストレートな意見をぶつけたとして、歓迎されるかもしれないが、よくも悪くもなんの反応もない。読まれるほうもある種、想定した範囲であれば無視しているだろうし、読む側も、とりあえず著者の反応があるなんてことは考えずに、こちらの意見をぶちまける。
ところが、コミュニティやブログでは、こうはいかない。ほとんどバトルや炎上ネタ、ということになってしまう。それを楽しむことは大いにありうることだし、楽しいことでもあるのだが、いつのまにかテーマがそれてしまったり、永遠とバトルが続いてしまって、収束がつかなくなる時もある。
まぁ、それがまたネット社会における楽しみなのだから、そのお祭りを避けたら、ネット人生、楽しみが半減する。私はこの意見に賛成だし、本来、そこに戻らなくてはならないと思っている。
しかし、どうも、バトルや論戦や議論をして、ネット上で楽しかったことは少ない。どこか傷が残ったり、傷つけたのではないか、と反省したり、と後味の悪いことが多い。そのような中にあって、より何か新しい何かを見つけようと手探りしている自分がいる。
この本「パソコンで文章がうまくなる!」というタイトルだが、もし自分が書くとするなら、「ネットでコラボレーションがうまくなる!」というようなタイトルになるだろう。議論、というのはちょっと違うかな。言葉のやりとりの中での積み上げ、そう、イメージとしてはコラボレーションというほうがぴったりしているかもしれない。
本来、新書本ではなくて、気の効いた書き手のブログとコラボレーションをしたい、というのが本音なのである。意味ある議論、意味ある積み上げをしたい、と思いつつ、まだ果たせないのだ。
それに向けて、文章もうまくならなくてはならないだろうし、まずは自分は何をどう考えているのか確認する必要がある。また、そのようなこちらの意図をうまく吸い上げてくれるブログ・ネットワークへの出会いも必要なのであろう。そんなことを思いつつ、誰が読んでくれるのかわからないような記事を、今日もまた書いている。