地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく
「<むなしさ>の心理学」 なぜ満たされないのか
諸富祥彦 1997
前2書「人生に意味はあるか」 「さみしい男」が好著だったので、他の著書も読むことになった。本来、この数年の間に書かれた新書本だけを取り上げようと思っていたのだが、この著者についてはもっと読みたくなった。この本は1997年だから、もう10年近く前の本ということになる。これ以前となると「カウンセラーが語る自分の<哲学>」、「フランクル心理学入門」、「カール・ロジャース入門」などがある。
9年前の日本の状況が書き出されているのは、今となっては興味深い。ポケットベルの「ベル友」とかフリーターならぬ、フリーアルバイターという言葉もある、携帯もケータイではない。著者のカウンセラーという仕事上、どうしても若者文化に彩られた内容となっている。前半は、まぁ、当時のオウム真理教事件の影響下における社会状況が書かれているが、後半もなかなか興味深い。
「どんな時も人生には意味がある」という「フランクル心理学」を紹介し、むなしさ克服のヒントを提示する。そして圧巻なのは、「トランスパーソナル心理学」に触れるあたりのところだ。当時としては、心理学に触れていた人なら誰でも関心をもつはずだったこの心理学も、こうしてみてみると、積極的に体系的に簡便に紹介しようという新書本は少ないのかもしれない。
私の目のつけどころが、どうも同じところばかりみているせいか、彼の本がやたらと輝いて見える。「トランスパーソナル心理学」をケン・ウィルバーやスタニスロフ・グロフなどを紹介しながら、こんなに簡単にまとめることができるとは、著者の腕前はたいしたものだと思う。実際はこの人たちの本は、やたらと難解で、「むなしい」なんて感じているミドルティーンたちには、ちょっと薦められたものではない。
ところが、この本では、その方向にキチンと門戸を開いている。しかもとてもわかりやすい。なるほど、と思う。今読んでも何の古臭いこともない。トランスパーソナル心理学と一般に言われるジャンルの翻訳は、C+Fの吉福伸逸氏らのグループの尽力が大きく、1980年代から始まっている。当時の心理学の世界に大きな影響を与えたはずなのだが、その後、どうなっているのか、はあまり関心をもたないできた。
しかし、この著者はすでに私より10学年も若い世代の学者達である。私達の世代が、吉福氏らの仕事ぶりを横目でちらちら見てうろうろしている時代に、この著者の世代は当時の世相の中で、純真な感性を持ってこのトランスパーソナルというものと出会っていたのだ。それは日本社会への紹介から、日本社会への根付きとなって、世代を超えて成長してくれているのだろうか。
トランスパーソナル心理学というと、こうした超常現象や神秘体験を専ら研究するいかがわしい心理学と思われている方が時々おられるようである。しかしそれは、まったくの誤解である。ウィルバーはこれらの現象には深入りしない。それどころかさまざまな超常現象や神秘体験について「これらの領域が<こころ>のレヴェルとは一切関係ないことは口をすっぱくして強調しておくべきだろう」「これらの現象がすべて実際に存在するかどうかは、われわれにとって重要な関心事ではない」と述べている。p155
さらにウィルバーは、こうした究極の意識状態に向かう可能性は、個人ばかりではなく、人類の進化史にも当てはまると考えている。<コスモス>の進化プロセスの一部として生まれた人間には、そのことを自覚し、さらなる成長をなしとげて究極の意識状態に向かう使命がある。そして、人類にはイエスやブッダという先駆者がおり、しかも彼らはどのようにしてそこに達したかを示す細かい資料も残してもいる。p163
自分はこの宇宙と一つである。そして同じ宇宙から生み出されたものとして、この地球や、生態系や、人類とも一つである。そうした意識状態は実際にあるし、どんな人にもそこに至る成長の可能性が備わっている。これがトランスパーソナルのメッセージである。p165
トランスパーソナルな体験はしばしば、私たちが狭く閉じられた意識から脱してより大きなアイディンティティを持つきっかけになる。それにより私たちは、今ここに生きていることの意味と使命を実感して、エネルギーを獲得することができるのである。p166
著者は当時34才イギリスにいて、日本では長女が生まれたばかりだった。この著書を経て、現在、そして、これから、どのような成果を上げるのか、楽しみである。最後に、他書にあまりでてこなかったところをピックアップしておく。
私の調査では「輪廻転生」を信じている学生は7,8割いるものの、「だから死はこわくない」と答える学生は小数である。「自分の死」はこわいし、考えたくない。だから何かに生まれ変われると信じていたいというのが、多くの学生たちの本音のようだ。つまり「輪廻転生」という概念は、「自分の死」から目を逸らすための安定剤のようなものとして、流布しつつあるのである。p119