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カテゴリ:マルチチュード
(2)より続く
第三部 生産の移行 p287 ようやく第三部にやってきて、我が意を得たりと思えるようなところがちょこちょこ出てくるようになる。p355あたりになると60年代のカウンターカルチャーが語られることになり、なんともほっとするのであった。 「ポストモダン化、または生産の情報化」p363なると、ある意味トフラーの第三の波とかなりの点で波長を一つにする。そして情報ネットワークやネット社会を論じ、ようやく、このブログとの接点を見出そうとする私がいる。 情報とコミュニケーションの権力構造における主要な要素の(事実上あるいは権利上の)統一化ーーーハリウッド、マイクロソフト、IBM、AT&T、等々ーーーを通じて、強大な中心化がすでに進行しているのである。p386 面白いことにここには、まだGoogleやYahooはない。原書が2000年発行だからしかたないが、この後続の書において、この辺がどう書かれているのか、また新しいチェックポイントが増えた気分でうれしい。 ここでネグリは、「帝国主義から「帝国」へ」p303、から、「大きな政府は終わった!」p437へと着々と進む。 私たちはアナーキストではなくて共産主義者(コミュニスト)なのだ。リベラルな大きな政府、社会主義的な大きな政府による人間性の抑圧や破壊が、どれほどひどくはびこっているかを目の当たりにしてきた共産主義者である。p440 この本の難解さは、論理自体の難解さではない。私とこの書の間における接点を見つけることの困難さに基づく難解さだ。だから、接点さえ見つけることができれば、この本はとても感動的な啓蒙の書となる。では、私が前半部を読むことに困難さを感じるのはなぜだろうか。そこには、ネグリ&ハートが強くもっているマルクスの後継(かどうかはこれから検証)であろうとし、共産主義者であろうとするところである。 私の平凡な人生のなかで、自分を**主義者と自己規定することはほとんどなかった。もちろん共産主義に触れるチャンスがなかったわけではない。ましてや革命的共産主義者たちは、10代から、すぐ傍らに、紅顔の友人、という姿をとってさえ、常にそばにあった。しかしながら、70年代から20世紀末にかけて、90年前後の東欧社会の社会主義の終焉を横目でみながら、ついに旧来の共産主義は私のハートを貫くことはなかった。 日本共産党の現状をみるまでもなく、中国共産党や、北朝鮮(これは再検討要)などの、いわゆる共産主義や社会主義といわれるものも、現在のところ、決して、魅力あふるるものとは思えない。むしろ、いままでの手垢のついた共産主義ではなく、新しく問い直され、編みなおされたものとしての、ネオ共産主義論なら、一口乗ってみようかな、という誘惑に駆られてしまう。 つづく お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.02.04 19:30:35
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