(3)よりつづく
第四部<帝国>の衰退と没落 p441
「訳者あとがき」p513までやってきてようやくわかることもある。この本1991年から1999年にかけて書かれた本であった。だから、時代感覚は90年代に据えてこの大作を味わっていく必要があるのである。本書は、「これまでのオーソドックスなマルクス主義からすれば、およそマイナーなものでしかなかったおびただしい理論や実践の水脈をたど」p516ったということだから、一読者でしかなく、ましてやマルクス主義者でもない私にとって、そう簡単に読み下せるものではないのだ、とやや自己愛撫する。
読者が、本書のそこここにそうした多数の声を聴き取り、それらの声に揺り動かされながら、みずからもマルチチュードへと生成変化し、その運動のなかに組み込まれていくように感じていただければ、訳者たちにとって、これ以上の喜びはない。p516
運動、組織、革命、主義、権力、闘士、抵抗、などなど、私のなかでは、いつの間にか死語化していた言葉が、この本のなかでは、新たな息吹を吹き込まれて、不死鳥のようによみがえろうとしている。あるいは、フランケンシュタインのような妖怪の復活をも予感させるような、怪しい雰囲気もある。
マキアヴェッリは、古代の概念構成を振り返りながら、近代的な概念構成を先取りもしていた。じつのところ彼は、<帝国>の逆説をもっとも適切な仕方で浮き彫りにした人物である。p465
なるほど、なんどもでてくるマキアヴェッリは、ネグリ&ハートにとっては、逆説の論理的基盤なのであった。
何よりもまず来るべき<帝国>はアメリカではないし、アメリカ合衆国はその中心ではない。本書でずっと描いてきた<帝国>の根本原理は、<帝国>の権力は特定地域地域に局所化可能な現実的な地勢も中心ももってはいない、ということである。p478
<帝国>はこれから現れるのだ。そしてそれはアメリカでもないし、アメリカを中心とするものでもない、と預言する。
人はそれぞれこの関係性を非ー場、つまり世界とマルチチュードのうちに見出すのだ。<帝国>の理念が再び現れるのはここだ。領土としての<帝国>でも、特定の時間と空間の次元を有する<帝国>でも、ひとつの民族やその歴史の見地に立った<帝国>でもなく、ただたんに、普遍的なものに生成する傾向を備えた、存在論的な人間の次元の織物としての<帝国>なのである。p479
さぁ、この辺からが、ネグリ&ハートの真骨頂といえるだろう。
いまは亡霊が蠢く真夜中である。<帝国>の新しい支配力とマルチチュードの非物質的で協働的な新しい創造性が暗がりのなかを動いている。私たちのこの先の運命を首尾よく照らし出せるものは何もない。にもかかわらず、私たちは新しい参照点を獲得した(そしておそらくは明日には新しい意識を獲得するだろう)。p480
この本が書かれてから、もっと古い部分は15年、最新の部分でも7年の時間が経過しているのである。9.11を経て、ネット社会の成熟を見、Googleの急上昇を経過した2006年の現在において、私たちは決して、「私たちのこの先の運命を首尾よく照らし出せるものは何もない。」とは言えない。いやむしろ、現代はますますネグリ&ハートの預言どうり動いてきているのではないか、そう実感せざるを得ない。この辺が<帝国>vsマルチチュードの図式がポストモダンなインテリたちにうけている理由なのだろう。
私はマルチチュードという概念に感動し共感しつつも、おおいなる不満ももっている。それは、マルチチュードという概念は、マルクス主義のプロレタリアートの焼き直しでないか、という初歩的な疑問はともかくとして、その構造自体がどうも古いものに思えてしまうのである。階級闘争的な視点をより今日的にしただけでいいのだろうか、とちょっと首をかしげてしまう。
個人的には自分の視点をマルチチュードという立場に据えてみるチャレンジをしてみたいと思いつつ、私の求めている「地球人スピリット」には、このままでは充足されない決定的重要な要素が残ってしまうと感じるのである。「スピリチュアルだが宗教は信じていない」という人々のネットワークが確実に成長しはじめている。この流れをネグリ&ハートは、十分把握しているとは思えないし、その理論に上手に取り込めているとは思えない。
この本、皮肉にも最後の最後の結句は、アッシジの聖フランチェスコの伝説で終わっている。
フランチェスコは生まれたての資本主義に異議を唱えながら、あらゆる道具的規律を拒絶したし、苦行(貧困や構成された秩序のなかでの)に異議を唱えながら、歓びに満ちた生を提示した。あらゆる存在、自然、動物たち、妹たる月、兄たる太陽、野原の鳥たち、貧民や搾取された人びとがそこには含まれ、それらは集って権力や腐敗の意志に抵抗するのだ。p512
<帝国>おわり
<5>につづく