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カテゴリ:マルチチュード
![]() アントニオ・ネグリ マイケル・ハート 2005 原書は2004 順序は逆転してしまったが、下巻を読んでから上巻を読むというおかしなことになってしまったが、ある意味、マルチ的に理解するには、この方法もまんざら悪くもないようだ。「マルクスを超えたマルクス」や「<帝国>」に一通り目を通した後に読んでみれば、この「マルチチュード」もきわめて読みやすい本とさえ思えるようになってきた。 マルチチュードとは何か。グローバル化に伴い登場しつつある、国境を越えたネットワーク状の権力<帝国>。この新しい権力の形成途上で生じる終わりなきグローバル戦争状態への抗議運動は、それぞれの特異性を保ちながらも、共通のネットワークを創りあげる。権力と同型の、ネットワーク状の形態で闘う多種多様な運動の先に、グローバル民主主義を推進する主体=マルチチュードの登場を予見する。<帝国>論の新たなる展開、ついに日本語版登場! 表紙見返し このキャッチフレーズはなかなか刺激的でワクワクさせられるコピーだ。ほんとについに登場した、と思わせられる。さて、マルチチュードという概念はいまだにはっきりと明確な実態を伴ったものとして書き出されているわけではない。 心にとどめておいていただきたいのは、本書が哲学書だということである。本書では、戦争を終わらせ、世界をもっと民主的なものにするための取り組みの例を数多く示していく。しかし、だからといって、本書に「何をなすべきか?」という問いに答えたり、具体的なプログラムを提示したりすることを期待しないでいただきたい。現代の世界が向き合うべき課題や可能性に照らしながら、権力や抵抗、マルチチュードや民主主義といったもっとも基本的な政治概念を再考することが必要だと私たちは確信している。p24 チョムスキーが、エスノセントリズム的でありながらも徹底的な歴史的分析をみせておいて、そのあとは読者「一人ひとりの地道な熟考と活動」を要求するように、ネグリ&ハートは、マルチチュードという概念を導きだしておきながら、「なにをなすべきか?」や具体的なプログラムを、いまだ提示しない。それはまだ、巨大潮流としてのマルチチュードと合流していないことを示していることにもなるが、また、多様的で分散的なマルチチュードという概念が、地球のあちこちから湧き出てきて次第にネットワークすることを期待しているかのようでもある。 だから、ここにおいて、私はネグリ&ハートのマルチチュードという概念を寸借しながらも、より私らしいマルチチュードを育てていけばよいのではないか、と思う。まず彼らのマルチチュードは、ネット社会におけるフリーウェアやオープンソースといわれている<共産>的動きにすでに気づいていながらも、十分に合流しているとはいえない。そして、さらにWeb2.0とも言われるまさに21世紀的<革命論>にも、明確にコミットしたとはいえない。 それはこの本が9.11以降2003年までの間に書かれていることを考えればやむを得ない面が大きいが、もし彼らが次の著書を準備しているとすれば、まさにその当たりが大きくクローズアップされることは間違いない。彼らがその動きを見逃すはずはない。しかし、その挙動が鈍重なのは、どうしても過去のマルクス主義や共産主義という殻をかぶりつつ行動しなくてはならないからだ。 その挙動の鈍重さにいらつきながらも、このかつての左翼的言辞を多用する論調が、ともすればソビエト連邦の崩壊以降、行き場を失ってさまよっていたかに見える旧「プロレタリアート」的大衆を、たくさん引き連れて合流する可能性があることは愉快なことだ。 やはり彼らのマルチチュードに対しては、私の地球人スピリット的視点から見れば、不足していることがいくつもある。簡単に言えば「スピリチュアルだけど宗教を信じてはいない」というグローバル・ネットワーカー達の今日的精神スタイルをうまく取り込めていない、ということだ。 しかしながら、逆に地球人スピリットからみると、<帝国>における3つの指標、「軍事」「貨幣」「コミュニケーション」という視点に対して、コミュニケーションはともかくとして、軍事、貨幣については、まだ十分取り込めていない、といっていいだろう。 今後、このブログでは、スピリチュアリティを補完する意味で、「アガルタ」というキーワードで東西の精神的神秘主義にも深くおりていく予定であるが、また軍事、貨幣についても、考察していこうと思っている。軍事ということを考えるなら、現実的な沖縄を考えなくてはならないだろう。もちろん憲法9条についても、再考を重ねなくてはならない。そして、貨幣については、M&Aやグローバル金融というものについても、今後食らいついていかなくてはならないだろう。 行く手にあるのは、<帝国>の秩序に属するネットワーカー状のさまざまな力が、四方八方に控えたネットワーク状の敵と対峙する戦争状態にほかならない。p120 ネグリ&ハートのマルチチュードは、絶対的戦争拒否的な平和論者ではない。エンドレスな戦争をおこさざるを得ない<帝国>に抗するためには、戦争を終わらせる戦争を闘うことを厭わないという姿勢を保ち続けている。共産主義の歴史が、反逆と抵抗の歴史であってみれば、それは必然的で止むを得ない姿勢なのかも知れないが、私はとにかく違和感を持つ。血による行動は血による報復をよびおこすだけではないか、ということはマルチチュードにもいえる。 むしろ、そのように血を用いないからこそ、マルチチュードと言えるのだ、という仮説を出しておきたい。
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