「日本とフランス二つの民主主義」 不平等か、不自由か
薬師院仁志 2006
この本、タイトルからしてちょっと重そうなので、後回しにしてしまったが、意外にも面白い本だった。前半は、自由=右派、平等=左派、というあまりに分かりやすい図式で、アメリカや日本、西欧諸国を斬って、あれあれ、なるほどなるほどと、その切れ味に圧倒された。だが、よく考えてみると変だぞ、と思い始めた。
切れ味のよい、分かりやすい論理や説明というものは、衝動的だが、よくよく考えてみれば、あちこちに取りこぼしがあり、やはり変、ということになりやすい。たとえば、円周率を3.14とするのか、単に3としてしまうのか、というくらいに違う。こだわれば、3. 14159265358979323846・・・てな具合にどこまでも続いていくらしいのだが、そこまでこだわる必要もあるまい。
とりあえず、日本の左翼勢力を「平等」という概念から切り取ってみると、なるほど、おかしいことだらけの日本の左翼、ということになる。本来、右翼陣営が求めるべき「自由」を左翼が求めていたりしたのでは、とてもとても、日本の左翼が生き残るなんてことはありえなかったのだなぁ、とさえ早合点してしまうほどの説得力だ。
しかし、よくよく考えてみれば、自由=右派、平等=左派 という切り口自体がすこし変なのである。本来、アメリカ独立革命においても、フランス革命においても、「自由・平等・博愛(友愛)」と三つそろってこその理想的な理念なのであり、インドにおいてカースト制度を否定し新仏教徒運動を起こしたアンベードカルなども、盛んにこの言葉を三つの単語をひとならべにして、なんども自著に登場させている。
自由=右派、平等=左派、という図式は受け入れるとして、たとえば、博愛はどうなるのかな、とふと疑問にならざるを得ないのは、自然の理である。世にいうフリーメーソンの陰謀が、この、絶対成立しえない三要素「自由・平等・博愛」という理念を、各国の国体の根底に仕込むことによって、国体そのものの解体を狙っている、などとまで、ここではいうつもりはないが、なかなか、この三要素は成立しえないのは、歴史上でも確実に言えることのようだ。
フランス人たちは、自分たちの普遍的平等主義を信じて疑わない。だからこそ、自分たちの国を、しばしば「美しい国(beau pays)」と呼ぶのだ。それは単に景色や景観の美しさを指し示す表現ではなく、むしろ、すべての者が「自由・平等・博愛」の下で暮らす国を讃える言葉なのである。
しかし、2005年秋の暴動に参加した者たちにとって、フランスは、決して「美しい国」などではなかった。だから、破壊という行為を通じて、現実のフランスを自分たちのイメージするフランスに近づけようとしたのだ。
彼らが見たかったもの、そして彼らが見せつけたかったものは、壊れたフランスの姿である。社会の底辺に追いやられた者たちにとって、「自由・平等・博愛」など、とても信じられるものではなかったのだ。むしろ、彼らにとっては、「壊れた国」こそが、フランスの実像に他ならないのである。p192
著者は、日本の左翼が「自由」と「平等」の違いを理解せず、また日本国憲法においては、「自由」ほどには、「平等」が語られもせず、保護もされていない。ここに、現在の日本の停滞がある、と指摘する。さて、もうひとつの「美しい国」日本、はどうなるのだろうか。
最近、この楽天ブログでは、記事を整理するためのカテゴリを50まで増やすことができるようになった。私はもともとリミットの10カテゴリに振り分けていたのだが、数ヶ月前に思い切って、3カテゴリにまとめてしまった。「ネット社会と未来」「ブログ・ジャーナリズム」「地球人スピリット」である。しかし、またまた次第にカテゴリはあふれ出し、もうひとう「マルチチュード」を付け加えずにはいられなかった。
しかし、今回ののこの本も実は、カテゴリとしては、なかなか既存のものに埋め込むことができないような感じがする。一つカテゴリをふやそうかな、とも思った。だが、今のところは、この本を「マルチチュード」にふりわけておこうと思う。私なりの振り分けなので、学問的あるいは図書分類的は、間違っているかも知れないが、私はこれからこの類の本もいろいろ読んでみたいし、それを今のところは、強く「マルチチュード」と関連させて読み進めてみたいからだ。
いずれにせよ、この本を読んで、思ったこと。それは「頑張れ、ニッポン(の左翼)」ということだった。