地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく
「こころをさなき世界のために」 親鸞から学ぶ<地球幼年期>のメソッド 森 達也 2005
仏教つながりでこの本を読み始めたつもりだったが、実は、この本はオウム問題つながりにいれるべき本だったかもしれない。しかも、この本は、著者のなんからかの表現物をすでに知っていて、その後に読むべき本だったのだろう。でも、いきなり「出会い頭」で新書本を読んでいこうというこのブログのテーマからは大きく外れてはおらず、逆にこの本は、個や私にこだわる面から見ると、このブログ向きとも言えるかも知れない。
まず、著者に対する近親感。彼は1953年うまれで、大卒後、就職活動などをおこなわず、芝居活動などを始めている。30前後になって子供が出生したことをきっかけに、生活のため、小さなプロダクションでドキュメンタリー映像の世界に入っていく。テレビ番組の制作などにかかわる途上でオウム真理教事件にであい、オウムサイドからみたドキュメンタリー映像「A」や「A2」を製作、オウムPR作家と言われる。さらにその後、その活動を通じて親鸞を知り、そのフレームの中で、オウムに触発された何かをとらえ直そうとしている。
ジャーナリズムや、ノンフィクション、ルポルタージュ、などのジャンルとともに、そういえばドキュメンタリーという手法があったな、と改めて再認識。しかし、本著でも書かれているとおり、製作テーマがあり、カメラ位置があり、フィルム編集という作業があるかぎり、意図のないドキュメンタリーはない、という著者の意見は当然だと思う。
この本にまず共感するところは、徹底的に一人称「僕」で通すところ。これはある意味、ブログ的であり、また、このブログでも再三私自身が反芻して考えてきたところ。この点については、オウム事件に触発されて注目をあびた宗教社会学というジャンルで書かれた井上順孝の著書などとは、対極に位置する。読み始めて、その徹底した極<私>的世界観に共感するとともに啓発されるところもあったが、一冊読み終わってみれば、それもちょっと辟易するところもあった。「主体なき骨無し研究」とまで井上の著書を酷評してしまったが、こちらの森達也の本も、はてさて「主体ばかりの骨だらけ独白」とでも名づけたくなるこだわりようだ。
この人、1953年生まれだから、私とまったく同じ学年のはずなので、時代感覚が相当似ている。同級生という感覚だ。クラスにこいつがいたら、大親友になるか、一番嫌な奴になるか、どちらかだ。すくなくとも無視はできない、意識せざるを得ない奴ということになる。だが彼にして、小さな間違いはいろいろありそうだなぁ、という感じ。
例えば麻原彰晃の生年を1951年のように書いているが、実は1955年というのが正しいだろう。あるいはビンラディンの生年も1953年のごときに書いてあるが(p189)、諸説あるものの1957年説がただしそう。別に大きくこだわるところではないが、世代的に共感を示しているくだりなので、ちょっと見逃すことはできない。
つまりこの方の表現は、かなり<私>的ではあり、ユニークであるが、つっこみどころは山ほどあるということになる。親鸞についての知識も付けけ刃的だなぁ、と思う。私自身、親鸞のこまかいことは知らないので、コメントしないが、この辺も<私>的表現だから、それを分かった上で彼の表現物に触っていく必要があるのだな、と感じる。
いずれにせよ、一人称にこだわるところ、オウムをあらたなフレームでとらえ直そうとするところ、現代を「こころをさなき」「地球幼年期」とみるところなど、共感すべきところは多くある。代表作ともいうべき「A」「A2」も含めて、機会があれば、彼の一連の作品や著書に目を通したいものだと思った。しかし、私は麻原一派に対しては、彼ほど甘い評価は与えない。