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カテゴリ:マルチチュード
「何も共有していない者たちの共同体」
アルフォンソ・リンギス 野谷啓二 訳 2006 一度読み終わった後に、もう一度、それぞれの章立てのカバーに掲げられたリンギス自身が撮影したと思われるモノクロ写真を眺めてみた。か細く繊細なまなざしが、これらの被写体に向けられていることを感じるが、逆に、それらの写真から鋭い啓発に満ちた視線で見つめられている自分を感じる。この本、ネグり+ハートの「<帝国>」VS「マルチチュード」と肩を並べて、現代思想の中で話題になっているという。 ある日のこと、テヘランの無秩序な車の流れのなかを悪戦苦闘しながら少し進むたびに、私は私の横、後ろ、そして対向してくる車に挑発的なクラクションを鳴らせる羽目になってしまった。私は同乗させていたヒッチハイカーに向かって、五街区この調子で運転すれば、質の悪いアンフェタミン剤を飲んだ路上のトカゲのような気分になると語った。すると彼は、いや、ここの人びとはわれわれ西洋人と違って、クラクションを警告や脅しのために鳴らすのではないのです、と言った。彼らは、よく実った麦畑に降り立ったウズラが、食べながらクックッと鳴いているようなものなのです、と。p128 メルロ=ポンティの「見えるものと見えないもの」、レヴィナスの「全体性と無限」、などの英訳者であるリンギスの著書は、哲学書というより、その文章と読むと、陰影に満ち満ちたドキュメンタリー作家達の表現物をみているような気分になる。 病気のために、何週間も南インドのマハバリプラムの小屋に横たわっていたある晩、私は、何日もつづいた熱による意識の混濁から目が覚めると、両腕の自由をすでに奪っていら麻痺が胸にまで広がっていることに気づいた。私はよろけながら、重苦しいモンスーンの、星のない暗闇のなかへと出ていった。浜辺で息を切らしていると、誰かが私の腕を掴むのを感じた。彼は裸で、ただ擦り切れた下帯だけをつけており、私には、彼がネパールから来たということしか理解できなかった。p199 リンギスが旅人でありながら、陰影の深い描写を続けることができるのは、彼が単なる旅人ではなく、長期間に渡ってその場に生活する方法を選択したからだ。長期の休みを取るたびにリンギスは、世界の各地に旅をし、長期間にわたってそこで暮らしてきたという。 「何も共有していない者たちの共同体」という逆説的な視点に、この世界が集約され得るのなら、ネグり+ハートのいう、今はないが、やがてはやってくるかも知れないマルチチュードなどという仮定の概念に頼る必要など、ないのではないか、思う。いや、こちらのほうがより今日的であろう、とさえ思える。ただこの7章からなる本書の中で触れられている世界は、ほんのわずかな印象でしかない。 私はリンギスの世界を知るために、彼の新たな著書を待つべきなのだろうか。そうすることによって、私はもっと、その<もうひとつ別な共同体>を知ることができるようになるのだろうか。いや、そうではないかも知れないと思う。「何も共有していない者たちの共同体」を見ることができる視力を持ちえたら、リンギスの新たな表現を待つ必要もないだろう。そしてそれは、<もうひとつ別な共同体>というユートピアを待望する思想ではなく、この世にすでにある蓮華国をみるブッタたちの視点にも、さも似てくる可能性がでてくるだろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.02.04 19:49:12
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