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地球人スピリット・ジャーナル1.0

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2009年4月1日

地球人スピリット
・ジャーナル2.0


へ引越しました。

2006.11.20
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地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく



 

「人はなぜ働かなくてはならないのか」 新しい生の哲学のために 
小浜逸郎 2002



 とりあえず借りてきた最近の著者4冊の発行年度を見ると2002年、3年、4年、5年とうまく具合に一冊づつ並んでいたので、まずは2002年の6月に発行されたこの本から読み始めることにする。発行年日からわかるように、著者がこの本を書こうとしたきっかけの第一は「2001年9月11日に起きた、アメリカ同時多発テロ事件」であるp3。著者は、「先進国の住民の魂を激しく揺さぶった」映像を見ながら、21世紀の人類世界は、これからどのような展開を見せるのだろうか」と問いかける。

 といいつつ、10章あるうちの、最後の「第10問 戦争は悪か」になって初めて主題が展開されているように思う。あえていうなら、「第9問 国家はなぜ必要か」もその関連といえなくもない。この小浜氏のような文筆活動を通常はなんと名づければよいのだろう。ご自身が言っているように単に「物書き」と言っていいのか、「新しい生の哲学のために」とサブタイトルがついているのだから、「哲学的営為」といっていいのか、浅学な私には判然としない。

 本文を読んでいく間に、「私」「私たち」という言葉が無秩序にでてくるだけでなく、時には「あなた」という言葉もでてくるので、ちょっとドギマギする。著者は2001年から
連続講座「人間学アカデミー」を主宰しているようなので、その講座の原稿を前提として書かれているのかもしれない。「あなた」という立場として、いわゆる小浜ファンというのも存在しているのだろうか。

 さて、1~8章を読んでは見るのだが、できるだけ多くの物を読み、できるだけ関連付けて、なお自らのコメントを加えることによって、何事かの思想なり哲学的な視点、視座を作ろうとしているのはわかるが、なぜか今ひとつ私のハートを打つものがない。それは何故か。私はつい「人はなぜハートを働かせなくてはならないのか」という命題に突き当たってしまった。w

 有り体に言えば、前書
「オウムと全共闘」よりも、この本のほうがより著者のハートを感じない。よりヘッドから書いているからだろう。これから数年の彼の著書がこのような路線から書かれたために、「人生のちょっとした難問」2005 のような、より噛み砕いた本を一冊書き加えなくてはならなかったのかもしれない。

 意識が意識であるかぎり、それは、宿主である身体そのものについての意識であるという原理的な制約をまぬがれない。17世紀の哲学者スピノザが「エチカ」で喝破した通り、「人間精神を形作る観念の対象は身体であって、それ以外はなにものでもない」
 しかし人間の意識は、その制約をまさに制約として捉えうることにおいて、固体超越的なのである。この、固体超越的であるという人間意識の本質を、宗教では「霊魂」とか「魂」と呼び、哲学では「精神」とか「自由」と呼び、また心理学では「心」と呼ぶのである。
p22

 う~~ん、なんともわかったようなわかんないような、まぁ、甘い点数をつければこれでいいのだけど、もし彼がスピノザ的な精緻な「哲学」を目指すのであれば、この程度の定義では「ヘッド」の世界では許されないのではないか。

 少なくとも、小さなフィールドワークをやっただけでも、「宗教では『霊魂』とか『魂』と呼び」というような粗雑な括りはできないのではないだろうか。「宗教」という大きな枠でくくってしまい、いわゆる宗教というジャンルに属する精神的営為は、すべて「霊魂」や「魂」を認めているような記述だ。
安斎育郎の小著を待つまでもなく、いわゆる宗教界においても霊魂や魂のあり方については、種々様々な対応がされており、杜撰な括りは哲学と呼ぶにはちょっとお粗末じゃないだろうか。

 「また心理学では『心』と呼ぶのである」とのことでもあるが、はてさて、そんな簡単に括ったら、心理学界を全部敵に回すことになるのではないだろうか。例えば「固体超越的であるという人間意識の本質」などというざっくりした表現を、
トランスパーソナル心理学な人たちはなんと捉えるだろうか。

 「哲学では『精神』とか『自由』と呼び」と、哲学オンチな私にはわかりやすい言葉で教えてくれているが、ここにおいても「哲学」という括りがあまりに大雑把すぎないだろうか? ギリシャ哲学、インド哲学、西洋哲学、仏教哲学、その他さまざまあれど、ここの括りだけでは物足りないな。

 まぁ、よいだろう。私はヘッドの人でもなければ哲学の人でもないので、これ以上、十分な論拠を挙げて反論する力量はないが、少なくとも、この方の本を読むときは、複雑雑多な世の中の大雑把な整理整頓はしてくれているけど、ちょっと眉唾で読み進めなくてはならないな、と警戒心を強めることにする。

 その他、読みすすめていくうちにテーマとしてはかなり面白く、一つの視座としては興味深いが、やはり感じるのは、彼はヘッドの人であり、本や文字から受ける知識を偏愛するタイプの人なのであろうか、ということである。読んでいて、この方の生きている世界のリアリティというものが、いまひとつわからない。つまり、一個の人間としての「身体性」がどこかでぶちきれている感じがする。

 この本がポスト9.11として書かれたという片鱗は、9章、10章になって現れる。

 日本が「天皇」という象徴的な中心をいただいているのも、もっとも合理的な近代国家であるはずのアメリカの国民が、主としてユダヤーキリスト教的な「神」の観念や「星条旗」という国家的な結合の象徴のもとに結束するのも、国家にはもともと「理性の実現形態」としてだけではなく、「情緒の共有の実現形態」としての側面が他ならない。先に述べたように、一気に版図を巨大化した国家が意外に短命なのは、この「情緒の共有」の限界をむやみに超えようとするからである。p240

 と、著者は「国家はなぜ必要か」の中で述べるのだが、この辺もなぁ、まるでこれでは、日本が天皇を中心にして国家ができているような書き方なのだが、少なくても現在の「日本国」は民主主義の国家なのであり、中心は「国民」主権である。天皇を中心とした「大日本帝国」は「一気に版図を巨大化した国家」として、「意外に短命」に終わったのではなかった、っけ??

 あるいは、最後の最後「戦争は悪か」で著者はこう書く。

 いま仮に、国家と国家とが紛争や戦争を起こしたときに、これを超越的な立場から必ずきちんと制裁できる国家秩序が確立されている状態を想定してみよう。こうした想定が現実のものとなるとき、そこにおいて、初めて「戦争は普遍的な悪である」という道徳命題が成り立つのである。なぜなら、そのとき、戦争を起こす国家は、一国内において法を犯す犯罪者と同じだということになるからだ。p280

 この部分は、著者がゴシックの太字で書いているから、そうとうに力をいれて言いたいことだろうが、これでは、まるで、漫画アニメの絵コンテを描きながらライターが鉛筆なめなめ書いていることとなんの変わりがない。ヤクザの抗争劇を地球上でやろうとしているだけではないか。地元のチンピラどものケンカが絶えないから、全国組織の親分にお願いして、この地方を治めようじゃないか、と、手打ち式でもやろうというのだろうか。

 これでは、いつまで経っても、タリバンは悪者、アメリカの核は善くて、北朝鮮の核は悪、といった一方的な価値観の押し付けを応援するだけで、怨念を根底とした応酬戦争はどこまで行っても終わらない。これこそまさに空想的だと言っていいのではないだろうか。

 平和を求めるのに、世界がひとつの秩序になったら、戦争はやめようという、いつかやってくる千年王国を待ち続ける姿勢ではだめだ。また、空想的にユートピアを描いて、引きこもってしまってもだめだ。平和を求めるなら、今ここが平和でないかぎり、いつまで経っても、どこまで行っても平和はない。

 私たち人類は、歴史的・文化的共同観念を束ねるものとしての主権国家の存在を認めつつ、それら相互間の摩擦や衝突を裁く「世界連邦国家」を日程にのせなくてはならない。それが現在どれほどの空想的に思われ、その実現が何百年後のことになろうとも、世界史の現在の段階がそれを要請している事実だけは動かしがたい。「世界連邦国家」の現実的な確立を俟(ま)ってようやく私たちは、「戦争は道徳的な悪である」と宣言できる権利を獲得するのである。p281

 これがこの本の結論部分である。この部分を読んで私は、笑ったらよいのだろうか、泣いたらよいのだろうか。すくなくともこの方の書く「私たち」というフレーズから、私Bhaveshのことははずしてほしい。私は、完璧にこの人の「私たち」という括りには入りたくない。何百年後の平和なんて、私はいらない。「ほしがりません、勝つまでは」という思想はいらない。

 ブッタは、2500年前の古代インドの戦国時代に、戦士族の王子として生まれ、自国が滅びるのをみながら、なお自らの中に「平和」を見出した。そして地球上にいきた人々何百億という魂たちを平穏のうちに導いてきた。たしかに、
戦争に協力した宗教者たちも多くいる。しかし、私は、世の指導者たちや、賢者たちに、自分の権利や義務を預託するつもりはない。すくなくとも、過去の戦争責任を問うことによって他者を批判し続けることなんかに、自分の人生を使いたくない。
 
 私は私として、平和を愛する人間として人生をまっとうしたい。






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Last updated  2009.03.29 13:06:29
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