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カテゴリ:ブログ・ジャーナリズム
<2>からつづく 「江原啓之 神紀行(3)」 京都 スピリチュアル・サンクチュアリ シリーズ 2006/4 マガジンハウス 京都には何度も行った。訪れかたもいろいろだった。通りすぎただけの時もあり、車を持っていった時もある。神社仏閣を見ようとしたこともあるし、大学のキャンパスを散策するだけのときもあった。ロックコンサートの時もあったし、八つ橋を食べにいっただけの時もある。だけど、いちども、全体としての京都、というものを考えてみたことはなかった。 千年の都である京都。たまに訪れただけの私にはその全部などを見ることはできない。しかし、私には京都を考える時に、どことなく共通した腹の底から湧いてくる不思議な感慨がある。それは、時の中央権力にまつろわぬ神々の静かな声なき声だ。源義経がついに都を落ちて、ついに奥州平泉におちて果てた時、さらに、北へと導き、北海道から大陸へ渡し、ついには源義経ジンギスカン説を作り出したような、民衆の声なき声が聞こえるのだ。 京都。いずれはまた訪れることになるだろう、日本の古都。思いは多い。 つづく お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.03.29 12:49:58
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