地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく
「インターネット社会論」
赤木昭夫 1996/2 岩波書店 単行本 341p
★★★★☆
タイトルに惹かれて借りてきた一冊。すでに1996年にでていた本である。ウィンドウズ95日本版が発売されたのは95年11月22日だった。当時インターネットのなんたるかを理解している人は極少数だった。恵まれた経済的環境と、恵まれた知性と、恵まれた直感性をもったひとだけが、とりあえずはインターネットの意味を理解した。その当時の、いわゆるWeb1.0を象徴するような一冊である。
あれから11年経過して、この本で問題視されているようなことはほとんど解決し、目標とされたことはほとんどが達成されてしまった。当時「夢」と感じられたことは、まさに21世紀の「現実」となっている。「社会論」ということで、いわゆる人間がすむ社会そのものについての展開があるかな、と思って読んだけれど、ほとんどがインターネットのハードやインフラに関する論旨が展開されているのみだった。
この本をちらっとみて、この本がでた当時は専門家と大企業の世界だったインターネットの世界が、現在ではいつでもどこでもだれにでも解放されたということはとてもうれしいことだと感じた。この本の中で、まだ解決されていない大きな問題といえば、人工知能の問題かもしれない。
ラカンの提言から19年後、MITで人工知能の研究を指導してきたミンスキーが、「心の社会」を出した。これは、ポスト構造主義者が持ち出したパラダイムを、仮説としての人間の脳の働きや、人工知能開発の方法論などにあてはめ、わかりやすく、いわばおとぎ話ふうにまとめたものだ。ミンスキーがラカンたちを下敷きにしたとは断言できない。だが、結果的にはそうなった。人工知能の研究に転機が訪れるたびに、「心の社会」がかつぎ出される。エージェントの研究が始まった時でもそうだ。というのは、そこに人間の心の働きの真実へ近づくヒントがあるからだ。p307
いままであまり気にしなかったことだけど、最近この「人工知能」という言葉にいちいち引っかかる自分がいる。ある意味、Web1.0は完成にちかづきつつあり、インフラとしてハードとしてほぼ当たり前のものになってしまった。そのベースをもとに、次なるものは何かといえば、自然とそちらへと視線が動いていくのは当然のことなのだ。
さて、ここに来て、進化したコンピュータを何に見立てるのか、ということを考えると、どうやら二つのアナロジーがでてくるようだ。一つは、頭脳や知能や意識や心、などなどといわれる、より知性的な部分に例えること。超スーパーコンピュータを「シンギュラリティ」と名づけている流れもある。この名称は、マルチチュードとの対比の中ででてきた名称でもあるだけに、興味深い。
もう一つは、ネット社会を母体や子宮のようなものに見立てること。映画の「マトリックス」などがその一例と言える。マトリックスと意識では、あまりにイメージが違い過ぎるが、ふと、母体の中にいる胎児のことを考えると、なぜか、うまくはまり込むような感じもする。このブログのこのカテゴリ「ネット社会と未来」は現在107まできている。次なるステップは、この辺のイメージで展開していくことになるだろう。