「オウムと9.11」 日本と世界を変えたテロの悲劇
島田裕巳 メディア・ポート 2006/7
島田にとってこの本は、麻原集団関連シリーズの大きなくくりで言えば三冊目にあたるのだろうか。一冊目の『宗教の時代とは何だったのか』は1997年3月にでているが、事件後二年後という時代でありながら、麻原集団の全貌がまだ見えない段階での緊急レポートという意味があり、のちに島田自身が、事件を「過去形」で書きすぎたと反省している。この本については、これから続いて読むところである。
『オウム なぜ宗教はテロリズムを生んだのか』は事件後6年を経過した2001年にかなりの分量の分厚い本になった。こちらについては、先日一通り読んでみた。読んだ結果、9.11直前ということもあり、また出版されてからすでに6年近い日々が流れてしまっていたので、最近の島田の心境というものも知りたいものだと思っていた。
この「オウムと9.11」は2006年7月発行だから、島田がオウムについて語る最新の心境と言っていいだろう。麻原自身の死刑も決定し、また、9.11に直接の関連が証明されなかったものの、サダム・フセインの絞首刑も執行(06年12月)されて現在、ある程度、全体像が見えてきたなかでの、島田の感慨がこの本にでていると見ていいのだろう。
一読して、結局、宗教学者としての島田でもいいし、ひとりの人間としての島田でもいいのだが、結局は、最終的な目的やゴール、根源的なテーマはどこにあるのだろう、ということだった。島田は、結果として多作な作家であるので、この本一冊にすべてが書かれているということではないので、他書もまんべんなく目を通したあとに、もう一度このことを問い直しても遅くはないと思う。しかし、その点については、実はあまり期待していない。
さて、この本、私にとっては極めて読みやすい本だ。島田のライターとしての才能がどんどん読ませてくれるのか、あるいは、扱う情報が、ほとんどがマスメディアや一般書籍あるいはネット上で入手可能な資料を中心に展開されているから、と言ってもいいかもしれない。逆に言えば、この程度なら誰でも書けるだろう、と思わせるところがなかなか憎い。ただ、だれでも「書ける」だろうが、「書こう」というモチベーションが湧いてこないだろう。偶然、必然はともかくとして、好むこの混ざるに関わらず、島田は、麻原集団と共に、一生を送らなくてはならなくなったような「カルマ」があるようである。
島田のものの見方というのは、あまり「裏」がない。人柄というのか、会ったことはないので、断言はできないが、真っ正直な素直な人格なのだと思う。この人格がよくも悪くも彼の世界を規定している。たとえば、思い込んだらたとえ火の中、水の中、でも飛び込んでいくようなジャーナリストの無謀さ、というものは感じない。あるいは、多少の論理の飛躍は気にせず、白を黒と言いくるめるような宗教家の風貌も持ちあわせてはいないようだ。あるいは、地位や立場に固執して組織の中での生き残りをかけるような権力志向もなさそうだ。
オウム真理教では、アメリカの国家権力や軍による攻撃の背景にフリーメーソン=ユダヤ人による陰謀があるととらえた。麻原は説法のなかで、フリーメーソン=ユダヤ人による陰謀についてくり返し説いていた。
この考え方を麻原に吹き込んだのは井上と早川で、その点は中川の法廷での証言などで裏付けられている。(降幡『オウム裁判と日本人』平凡新書)。麻原も破防法弁明手続きの際の意見陳述で、フリーメーソンの陰謀については弟子から教えられ、それを鵜呑みにしてしまったと証言しており、その点ではグルと弟子の証言は一致している(『オウム法廷』(2)上)。p51
「弟子から教えられ、それを鵜呑みにしてしまったと証言しており」というところは、いくら「証言が一致している」からと言って、それを「事実」とは私には思えない。「真理」を説くべき「尊師」が、弟子の言葉を「鵜呑み」にするなんてことはあってはいけないし、少なくとも、この部分は、麻原集団が暴走する大きな要因になっているはずである。グルについても、弟子についても、あるいは、そのように認定した法廷についても、その法廷の認定を簡単に「一致している」と事実とし積み上げていってしまう島田についても、ここでは私には承服しがたいものを感じる。
このフリーメーソン=ユダヤ人による陰謀というとらえ方は、決してオウム真理教に独自なものではなく、一部の人たちのあいだに広く流布している。ユダヤ人陰謀説の代表的な論客は広瀬隆・宇野正美・太田龍などで、いわゆる「トンデモ本」と言われる書物に類には、ユダヤ人陰謀説やフリーメーソン陰謀説をとるものが少なくない。麻原もそうした書物に影響された弟子たちから吹き込まれ、フリーメーソンを唱えるようになったわけである。p52
この辺の島田の認識はまさに、素直すぎる判断だと思う。たとえば、出口王仁三郎の言説などにも、メーソンやマッソンなどと頻繁にでてくるものであり、ごく80年代や90年代にでてきた「陰謀論」を極めて新しいもののごときにとらえてしまうのはどうかと思う。いわゆる新興宗教と言われるものいは、この陰謀論を教義の根底にすえているところもすくなくなく、麻原自身のアンテナに、弟子から「吹き込まれる」はるか以前から、そのようなものに対する感触を持っていたことは、容易に推測できる。
ただ、この辺については、簡単にオープンなブログで準備不足の言辞を吐いてしまうのは、拙速というものであるので、ここでは、島田の感触を抜書きしておくにとどめる。
島田はこの書において、イスラム原理主義やテロ組織としてのアルカイダについて言及し、テロリズムを生み出した麻原集団との類似性、あるいは共通性を見つけようとしている。あるいは、イスラム社会における自爆テロは、日本が輸出したものだ、と、他者が発言することをためらっていることをズバリ表現している。島田は勇気のある人なのか、なんとかは蛇に怖じず、というような、ものごとを深くみようとしない人なのか、その辺は、現在のところ判断しないでおく。
この本は、いろいろな新しいテーマを含んでいるが、少なくとも、島田だから書けるということが多い。島田のように事件に巻き込まれた立場だからこそ書ける、ということもある。島田のように物事をとらえる人だからこと書ける、とも言えるかも知れない。あるいは、やはり、怖いものしらず、という島田特有の体質だから書ける、ということもあるかもしれない。