
「がんばれマルチチュード」 ああ21世紀
荒岱介・編 2003/4 実践社
あちこちの著作に散見されたマルチチュードをいう単語を追いかけても、それほどの情報量があるわけではない。日本語でこの単語を用いた本のタイトルは、本家のネグリ&ハート以外には、この本くらいしかないのだろうか? この本は、60人からの作文集によって成り立っている。
もっと目線を下げた、ありきたりの人が等身大のところから職場を見ており、社会を見ている労働者の話はないのか。ふつうの人のふつうの営みの中にある喜怒哀楽に出会えないのか。
そんな編者らの期待にこたえてくれたのが、小さな業界新聞の「職場から」などの欄に掲載されていた投稿原稿の数々だった。人権と環境をテーマとするNGO集団の発行する新聞だが、もともとは極左過激派集団の機関紙である。それがヨーロッパはソ連での社会主義の体制的転覆を経て変遷し、いまのスタイルにおちついた。p4
なんと、自らが「極左過激派集団」などと表現する時代になったのかい、と検索してみると、「荒岱介のページ」とか「荒岱介」などの情報がすぐでてくる。しかし便利な時代なものだ。この人、ブント(共産主義者同盟)の関係者だったのね。
共産主義の20世紀的変遷の果てに、その「止揚」された概念としてのマルチチュードであるが、本体の共産主義自体の息の根がとまっているかに見えるので、どうもこちらのマルチチュードという概念も、はでな動きはないと見える。この本に書かれている60人の人たちの「職場から」のレポートだ。
このいくつもの体験記については、だから「がんばれマルチチュード」としか言えない。私たちの世代のように階級的対立から考えるなんてことは、これっぽっちも指向していない人達の文言である。だからそれはどう読んでも「がんばれマルチチュード」なのだ。p5
まぁ、しかしながら、書いている人たち自身「マルチチュード」とも思っていまい。ひとりひとりの職場からの体験記は興味深い。胸にぐっと来るものがおおい。なんとも言えず共感してしまうが、60人の人々の「悩み」を一手に引き受けるほど、こちらもタフな心理状態ではないので、つい目に蓋をしたくなる部分もある。
私は個人的には、「マルチチュード」という概念はすごく面白いと思っているのだが、そのルーツや扱われ方によって、どうも荒岱介が言うような「ふつうの人のふつうの営みの中にある喜怒哀楽」の中で出会えるような言葉や概念にはなりそうにない。将来的には大化けするかもしれないが、今はマイナーな細い水脈というところだろうか。
帯に宮台真司が推薦言を書いている。「有象無象の若者の中にこそ次世代のパワーがある」