
「チベット密教新装版」 シリーズ密教2 <初読>
立川武蔵・頼富本宏・編 新装版2005/8 初版1999/8 春秋社
二人の編者のほかに、田中公明、正木晃、ツルティム・ケサン、などなど総勢15名の学者たちによるチベット密教研究のオムニバス。「インド密教」「チベット密教」「中国密教」「日本密教」という全4冊シリーズの中の、第二冊目ということになる。この一冊だけでも、相当にくわしいチベット密教の流れがわかるが、インド→チベット→中国→日本、という図式の中で、密教の流れを俯瞰することもいずれはしなければならないだろう。その時、この4冊を通して読んでみることは、チベット密教の「密度」を感じる上で有意義なことだろうと期待できる。
さて、この本において、分かったことがいくつかある。
チベットがインドで発達した密教を受け入れようとしていた13世紀初頭には、イスラム世界、インド、モンゴルでは決定的な変化が起きていた。1203には仏教の大僧院ヴィクラマシーラがイスラム教徒によって滅ぼされている。
インド大乗仏教が亡びるとほとんど同時に、インドは長いイスラム支配の時期に入る。一方、1207年にはチンギス・ハーンはチベットの首長たちを降伏させた。この頃からすでにモンゴルの脅威は現実的なものとなっていたのである。モンゴルは1211-1215年に金帝国を攻撃し、数年後には西夏帝国を亡ぼしている。つまり、カギュやサキャの宗派が成立して一世紀ほどで、すでにチベットは非常に危険な状態に置かれていたことになる。p20
700年前のチベットはこのような状態だったのである。そして、カギュ派が置かれていた状態も推測できる。モンゴルからの攻勢により、密教の密教たる部分が地中にもぐり、埋蔵経と化してしまったことは容易に判断できる。
モンゴルはしかしチベットを亡ぼさなかった。それはモンゴルがチベット人の文書作成能力と精緻な体系に仕上がっていた仏教システムを、自分たちの国のために役立てようと思ったからだ。モンゴルのゴダン・ハーンはサキャ派の指導者サキャパンチェン(サキャパンディタ)を強引にモンゴルに招いた。サキャパンチェンは「皆殺しになるのを避けるためにモンゴルに従ったほうがよい」とチベット人たちに手紙を書いている。
ともあれチベット人たちは知識人であったことが幸いして生き永らえることができた。モンゴルと結びついたサキャ派の勢力が衰えると、カギュ派の一派パクモトゥ派が権力を有するといったように、チベットはモンゴル(元朝)との友好関係を保ちながら、自国の中の抗争に終始した。p20
チベット密教史上数千年の歴史の中で、もっとも画期的人物とされるツォンカパは1357年生まれだから、それ以前ということになる。ツォンカパはゲルク派を開宗し、15世紀以降のチベットの歴史つまり「近世」の仏教史の方向を定めたp51される人物である。
ミラレーパは84歳で生涯を閉じ、残された8人の高弟のうち、5人までは教えを説かずに定に入り、残る二人は教えを伝えたという。
この二人の高弟とは、太陽のような悟りに達したといわれるタクポラジェ(Dvagas po Iha rie 1079-1153)と、月のような悟りに達したといわれるレーチュンパ(Ras chung pa 1084-1161)である。前者は若い頃、タクポ地方の医者(ラジェ)であったが、流行病にかかった妻と二人の子どもを救えなかったため、医術をすてて出家した。カダム派のシュワリパより具足戒を受け、カダム派の法を学んでいたが、32歳の頃、放浪の詩人ミラレーパの令名を聞きそのもとに馳せ参じて師事した。タクポラジェは13カ月の間ミラレーパから法を聞き、タクポ地方に戻って隠遁修行に入り悟りを開いた。主著「道次第、解脱の飾り」(Lam rim thar rygan)は、ミラレーパより伝えられたマハームドラーの法とカダム派の修行階梯とを結び付ける思想を説き、この教義を奉じた弟子たちの中から数々の教団が生まれた。p42
ここで気になるのは、ミラレパの8人の高弟のうち、その教えを伝えたとされる二人の弟子のうち、多くの流れを作った「太陽のような悟り」のタクラポラジェではなく、「月のような悟り」に達したとされるレーチュンパである。分派相関図をみるとレーチェンパの法統は継続者は途絶えているようだが、この後継者の位置にどのような動きがあったのかを探ってみるのも面白いと思う。とりあえず、このブログでは、ここに焦点をあてていってみよう。この時期に、他においては沢山のことがおきていた。
元来、密教者の中には教学の体系化や教団の組織化といった内的衝動は存在しないが、タクラポラジェがカダム派という顕教の教えを導入したため、カギュ派の教学の体系化や教団化の傾向が始まったのである。
タクラポジェの門下から生じたカギュ派の主な分派には、パクモトゥは、バロム派、ドゥク派、ツェル派、ディクン派、カルマ派、トブ派、マルツァン派、イェル派、シュクセプ派、ヤーサン派がある。
このうち最も規模が大きいのがカルマ・カギュ派である。カルマ派はタクラポジェの弟子であるトゥースムキェンパ(Dus gsum mkhyen pa) 1110-1193)によって創始されたもので、その本拠地は同人が1189年にラサの北東に建立したツルプ寺(mTshur pu)にある。本寺の座主はトゥースムキュンパの転生者によって継承され、歴代のカルマパは明の皇帝の帰依を受けて大きな政治勢力を誇った。また、その著名な弟子たちも転生を繰り返してカルマパと師弟関係を結びつづけている。
たとえば、カルマパ3世は弟子であるタクパセング(1283-1349)の転生者が紅帽(zhwa dmar)活仏系譜を、5世カルマパの弟子チューキギェルチェン(1377-1448)の転生者がシトゥ(si tu)活仏系譜を、6世カルマパの弟子ゴジペルジョルルンドゥプ(1427-1489)がギェルツァプ(rgyal tshab)活仏系譜を、8世カルマパの弟子チューサンルンドゥプ(1440-1503)の転生者はパオ(dpa bo)活仏系譜を織りなした。これらの四活仏は、カルマパが逝去してから時代のカルマパが成人するまでの間、摂政となってカルマ派の政務や宗務を代行する習わしがある。p43
後世においての歴史家達の分類というものが、新しい学説によって覆されたりすことは常にあることだし、また、その流れを文字通り読んでしまうことに、真実を見落とす可能性も常にあるのだが、一般的な流れとして、当時の状況を把握しておくことは大事なことだろうと思う。
カギュ派と総称される宗派には当初から二つの系統があった。ひとつはキュンポ(Khyung po 990-1139)を祖とするシャンパ・カギュ派と、マルパ(Mar pa 1012-1097)を祖とするマルパ・カギュ派である。マルパの弟子には有名なミラレーパ(Mi la ras pa 1040-11123)がいる。ミラレーパは宗教詩人としても有名で、彼が自伝風に綴った歌謡集の「十万歌謡グルブム」(mGur 'bum)はチベットの代表的な文学であり、手を顔の横にかざして朗々と即興詩を歌っている彼の姿を描いた絵画は、チベット人が最も好む画題でもある。
ミラレーパの重要な弟子にガムポパ(sGam po pa 1079-1153)がいる。それまでのカギュ派が山中での個人的な修行を伝えていたのに対して、ガムポパ以降は僧院で弟子を養成する大きな教団となった。ガムポパには数々の弟子がいたが、その中の一人であるトゥースムキェンパ(Dus Gsum mkhyen pa 1110-1193)から支派のカルマ派が成立し、別の弟子のパクモトゥパ(Phag mo gru pa 1110-1170)からはパクモトゥ派が成立した。両者とも強大な支持氏族を得て勢力をのばして、やがて大きな政治勢力にも発展した。
カルマ派には黒帽派と赤帽派があるが、黒帽派の祖師の中には有名なランチェンドルジェ(Rang byung rdorje 1284-1339)やミキュードルジェ(Mi bskyod rdo rje 1507-1554)がいて、師子相承を表した絵画が多く描かれた。p190
第9章の田中公明が担当した「チベット仏教美術」についての文章も、的確な指摘をしているので、長文だが抜書きしておく。
近年、チベットに対する関心の高まりにつれて、従来、わが国ではまたっく無視されていたチベット仏教美術も、しだいに世間の注目を集めるようになってきた。
チベット仏教美術、とくにタンカと呼ばれる軸装の仏画は、容易に持ち運びができたので、チベット動乱から文化大革命に至るチベット仏教の受難期に、多数の優品が国外に流出した。文化代革命の期間中、中国国内では多くのチベット寺院が破壊され、多数の文化財が失われた。亡命チベット人により、国外に持ち出された作品が難を逃れたのは、不幸中の幸いというべきであった。
しかしながら生活に困窮していた亡命者は、せっかく持ち出した美術品を処分せざるをえなかった。当時日本は昭和30年代で、外貨の持ち出しさえ規制されていた時期である。これらの美術品を購入したのは、主として第二次世界大戦の戦勝国であった。かくして1959年のチベット動乱以後、多量のチベット仏教美術が、欧米のコレクターに所蔵されることになった。
これに対してわが国は、バブル経済の時代から、チベット仏教美術が一部の美術愛好家の注目を集めるようになったが、すでに多くの優品が欧米のコレクターの所有に帰していたため、わが国に所蔵されるチベット仏教美術は、欧米の一流コレクションに比して、質量ともに遠く及ばないのが実情である。
このような状況の中、1997年に東京をはじめ全国3ヵ所を巡回した「天空の秘宝 チベット密教美術展」は、わが国におけるチベット美術の歴史上、画期的なイベントとなった。従来のわが国では、チベット仏教美術というと、「安物」「得体の知れない奇怪な美術」「いかがわしい作品」というネガティブな評価がつきまとっていたが、この展示を見て、従来の先入観を改めた美術愛好家も多かったのではないかと思う。p163

再読 2008/08/31