
地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく
「僧侶と哲学者」 チベット仏教をめぐる対話
ジャン=フランソワ・ルヴェル + マチウ・リカール・著 菊地昌実・高橋伸邦・高橋百代・訳 1998/10 原著 LE MOINE ET IE PHILOSOPHE 1997
タイトルの重々しさに比較すると、とても読みやすく興味深い一冊。僧侶とは、分子生物学を研究していて、ついにチベット仏教の僧侶となった、フランス人の息子。1946年生まれだから、段階の世代ということになる。哲学者、とは、1924年まれのフランス人の親父。「マルクスでもなくイエスでもなく」(1970)などの有名な著書のある、いわゆる戦前派。この二人の対話は、世代間の対話でもあり、東洋と西洋の対話でもあり、哲学と宗教の対話でもある。
もちろん、哲学者という言葉にも大きな幅があるように、チベット仏教の僧侶と言われても、その意味するところは、幅ひろい。先日読んだフランソワーズ・ポマレの「チベット」によれば、チベット密教では、修行者、ラマ、僧、グル、僧院長、還俗、俗人、聖職者など、さまざまな概念が入り混じっているようだ。
この親父と息子の対談が行われたのは、1997年、日本でも、似たような対話がいろいろ続いていた時期だ。「ブッタの夢」1998/2 、「日本社会がオウムを生んだ」1999/3 、 「約束された場所で」1998/11 、 「村上春樹、河合隼雄に会いにいく 」 1996 、などなど、さまざまな企画がなされていた。
しかし、その中にあっても、この一冊は質が高く、チベット仏教をとりまく状況を、西洋人(フランス人)の立場から、宗教的に、哲学的に捕らえなおそうとしている。息子のほうは、旅行人としてアジアをたずね、やがて、僧侶となり、ダライ・ラマの通訳など要職を務めるようになる。
息子 キリスト教世界にも、アッシジの聖フランチェスコのようにとても偉大な賢者がいました。しかし、どの司祭も、どの修道士も、たとえ真面目にすべての掟を守る信者でも、精神的な完成の域に達するとは私は思いません。チベットでは、人口の20パーセントが聖職者ですが、これらの修行僧のうち、今世紀にそのような精神的完成の域に達したと言われるのは、わずか30人の賢者だけです。p64
親父 試練を経たおかげで、仏教は国の枠を超えた使命をもつようになり、それらがおそらく現在、西欧に広まる基を作ったのだろうね。仏教はその歴史の過程で、いろいろな文化と深いかかわりを持ったけれど、ある特定に文化と結びついていない。チベットはたしかに地理的にも精神的にも要塞のようなものであり、千年以上にわたって、仏教を構成するあらゆる要素を保存することができたけど、そのかたわら、仏教の教えはスリランカや日本のようにまったく異なる文明のなかに枝分かれして、入っていった。その場合、仏教は、入っていき、根づいた国の「色合い」を帯びたのだろうか? 0261
興味深い、息子と親父の対話は、一読に値する。