
「コリン・ウィルソンの『来世体験』」 人間は死後も存在しつづけるのか コリン・ウィルソン 荒俣宏・監修・解説 梶元靖子・訳 1991/3 三笠書房 原書 AFTERLIFE 1985
コリン・ウィルソンと荒俣宏の組み合わせは、「ルドルフ・シュタイナー」以来だ。だからといって、別にシュタイナーを追いかけているわけでもないのだが、どうもやはりシュタイナーは気になる。この本でも、シュタイナーは沢山でてくる。あるいは、シュタイナーあたりを中心にしてこの本を読んでいかないと、なにがなんだかわからなくなる可能性さえある。
コリン・ウィルソン、という人は一体なになのだろう。前に、「彼こそ、ある意味、「シャングリラ症候群」を側面からダイジェストしてくれるのではないか、という予感がある」と書いておいた。確かに私にとっては、そのような道案内役を買ってくれるのが、コリン・ウィルソンであることは間違いない。しかし、これだけの有象無象の雑多な現象を克明に追い続けながら、しかも自分の立場を残し続ける人も珍しいのではないだろうか。1931年生まれというから、もう76歳か。Oshoと同年代だ。
擬似死体験の絵からこの本は始まる。擬似死ならぬ、誕生時の絵としてなら、私はこの絵を大いに認める。これは私の誕生時の情景だ。「おーい、おーい」と、うれしさのあまり絶叫しながら、走りながら、生れてきた記憶がある。それはそれはうれしかった。
シュタイナーの理論によると、人間は、肉体、エーテル体、アストラル体、エゴ体の四つの部分によって構成されている。睡眠時にはそれが、アストラル体とエゴ、肉体とエーテル体のふたつに分離する。p106
この辺の言葉使いは、微妙である。しかし、大体においてOKである。まずは、そのようなボキャブラリーをこのブログにおいても活用していこうではないか。
リットン卿(イギリスの作家、政治家、植民相などをつとめた。「ボンベイ最後の日」の作者)は、球状になって消滅した光輝く姿、実態のない手や音、ものすごい閃光など、ホームの交霊会で生じた多くの現象を題材として、有名な「幽霊屋敷」を著わしている。しかしリットンは霊の介在を信じず、その原因をホームの無意識精神に求めた。p153
しめしめ、作戦どおり、コリン・ウィルソンを追いかけていけば、リットンもでてくる。
しかし重要なのは、ユングが出版物においては一度もこの態度を表明せず、超常現象は無意識精神のパワーによって説明されると主張しつづけたことである(この件についての詳細は、ユングに関する拙書「ユング---地下の大王」(1984年)を参照のこと)。
ここでは、「霊魂仮説」がほかのいかなる仮説よりも事実に符合するという、ユングの意見を採択しておこう。そして、最終的にはそれが正しいか否かという問題は、しばらくのあいだ保留しておくことにしよう。p190
「ユング---地下の大王」は、この次に読むことを予定している。すこしづつ連環がでてきた。
シュタイナー、アカシャ記録を「読む」
その冬、シュタイナーはベルリン神智学協会の寵児となった。そのいっぽうで、態度を保留した者も幾人かいた。シュタイナーの言葉がしばしば、創設者ブラヴァッキー夫人や、現代の指導者アニー・ベサントの言葉と矛盾するように思えたからだ。p237
レムリア、と言っても、レムリア時代の文献が残されているわけではない。19世紀の世紀末をはさんだこれらの西洋的スピリチュアリティの動向を眺めることは、このブログの展開上、必要不可欠と思える。
アニー・ベサント夫人もシュタイナーに会って感銘を受けたひとりだった。彼女はシュタイナーが説く奇妙な神秘主義的キリスト教にいささかの不安を抱いていたが、すべての宗教はひとつの真理に通じるというブラヴァッキー夫人の教えを考えれば、警戒する必要はなさそうに思われた。それにシュタイナーはブラヴァッキー夫人の基本的教義---現代の人類は第五「基本種族」であり(第四はアトランティスの住人だ)、人はみな多くの転生を繰り返すという教えを認めているのだ。
シュタイナーはまた、宇宙のエーテル中に貯えられた不可視の歴史記録、「アカシャ記録」を読むことができると主張し、驚異的な迫真性をこめて、キリストの子供時代や西洋史のさまざまな霊的事件を語った。p238
なんだか、出口王仁三郎の「霊界物語」を思い出す。やはりシュタイナーもなかなかの曲者だな。
神智学文献を読むと・・・・「アストラル次元」とか「エーテル複体」とか「因果体」とか「カルマ」などという言葉でできた理論体系に直面する。神智主義者のかたがたには失礼ながら、これらは科学的説明とは言いがたいし、アストラル次元と物質世界との関係、エーテル複体と生理学者に肉体として知られるものの関係を明らかにしないかぎり、科学的説明にはなりえない。p247
これはコリン・ウィルソンの率直な感想だし、彼に対する信頼が大きく築かれているのも、このような表現を素直にできてしまうところにある。
エリザベス・キューブラ=ロス博士は、第二次世界大戦末期にマイダネックの強制収容所を訪れ、ポーランドのヴィスラ川に亡命者のための施設を設立した。1960年初頭には、シカゴの神経医学・病理学教授と結婚してアメリカにわたったが、死を無視し、死など存在しないかのようにふるまうアメリカ人気質は、彼女に大きな衝撃を与えた。末期の患者を病棟にいれることを、医師が拒否することさえあるのだ。p297
キューブラー=ロスについては、このブログでも続いて読んでいく予定だ。
強烈なヴィジョンの瞬間、自己同一性は消滅し、単なる仮面にすぎなくなる。そして彼は、外宇宙と奇妙に類似した内宇宙の深淵をのぞきこむ。「私は誰か」という疑問の答えは、望遠鏡の自己に内側にむけることによってのみ、得られるのである。p349
まさにその通りだ。このブログはその過程にあるし、瞑想とはそのような道筋のなかにこそ存在する。しかしながら、コリン・ウィルソン本人は瞑想とか、するのだろうか。この人が、その道を歩み始めたら、もっと別な展開があっただろうと思うがどうだろう。瞑想をしない(とは断定できないが)からこそ、コリン・ウィルソンである、という自己同一性は、結局、彼をこの世の岸に存在させている大きな理由であろう。彼が瞑想をはじめたら、このような本を書くことをやめるにちがいない。