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地球人スピリット・ジャーナル1.0

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2009年4月1日

地球人スピリット
・ジャーナル2.0


へ引越しました。

2007.05.07
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カテゴリ:アガルタ

地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく



「インド・アメリカ思索行」 <2>

前半より続く


 素直といえば素直、鈍感とあまりに鈍感だ。「オレンジ服のアメリカ人たち」p243以降、立川は、18ページに渡って、1977年当時のインド・プーナのOshoアシュラムをレポートしている。彼がアシュラムを訪れたのは、8月21日と、8月28日。たった二日だけの訪問で何が分かるもんか、という、ちょっとした苛立ちが私の中に湧いてくる。当時35歳の立川が疑問を持ったまま立ち去ったOshoアシュラムに、その3カ月後の11月、23歳の私は、長い旅の途中で辿り着き、一年間滞在することになる。

 当時のインドやプーナ、あるいはOshoアシュラムについては、私なりに知っている。見たこと聞いたこと、体験したことは、沢山ある。有りすぎて書ききれない。書く、という意味さえ、意味を失うほどの体験をした。だから、立川のおっさん、ちょっとウザイぜよ、と思う。な~んにも知らないジャン、と冷やかしたくなる。しかし、この当時のプーナ風景を、そして、Oshoアシュラムを、このような形で一冊の本の中に残している記録は他にほとんどない、というのも事実だ。

 
オレンジ服の親子はわたしの横のテーブルで食事をしていた。ここからさほど遠くないところに、ラージニーシという人物が道場(アーシュラム)を創設し、数百人の欧米人を中心とした人々を集め、教団活動を続けているということは聞いていた。オレンジ服はその道場の一員であることの証しだ。
 その母親はまだ若かった。母親とはとても思えなかったほどだった。夫はいるのだろうか。夫を持っている様子でもない。ラージニーシ・アシュラムはどんなところだろうか。この人々はその道場でなにをしているのだろうか。
p244

 私もこの10年後の87年に、このOshoアシュラムに二人の子供(4歳と2歳)を連れて4ヶ月滞在した。もし、レストランの隣に座った立川に、こんな風に詮索されていたとしたら、やっぱりウザイ奴だなぁ、と思ったにちがいない。

 8時きっかりに説教が始まった。聴衆は300人近い、白い布を張った壇の上におかれた椅子に坐ったラージニーシは、横から突き出たマイクにささやくように話し始めた。ざわめいていたオレンジ服はとたんに静かになり、見事なヒゲを生やし、白い服を着た、彼らの先生の話を聞き始めた。p247

 この辺、誰もたしなめないから、適当なことを書いている。Oshoが話し始めてから、ようやくざわめきがとたんに静かになる、なんてありえない。ブッタホールでもチャンツホールでも、私語は禁止。咳一つさえできない。最初っから静寂の中にOshoは登場するのだし、静寂の中にOshoは退場した。
 
 ラージニーシ先生の講義はますます調子に乗ってきた。天上からつりさげられた八つの大きなスピーカーから彼の声が落ちてくる。講義が始まったときには、インド英語のアクセントはほとんどなかったが、一時間経った今、早口になり、声も以前より大きく、インド人特有のアクセントもしばしば混じるようになった。文章の中の区切りにくる”t”の音が”チ”になるのは、彼の個人的癖なのだろう。p249

 わずか1~2日だけアシュラムを訪れた、通りがかりの研究者やジャーナリストの感想がこの程度で終わるのは仕方ないかも知れない。この日、Oshoがどんなレクチャーをしていたのか。後年、立川武蔵はチベット密教を研究テーマに選ぶことになったが、当時45歳のOshoは、そのチベット密教が依って立つインドタントラを起こした
サラハを語っていたのである。

 ラージニーシはこれまで20冊以上の英語の本を出版しているが、彼の著書を読んだことのないわたしには彼の思想の全体像はわからない。しかし今日聞いた限りでは、それほど新しいとも独特であるとも思えない。p250

 とするなら、立川武蔵は、Oshoをさげすむべきではなく、自らを恥ずべきである。少なくとも研究者たるもの、単なる一時の印象だけでものごとを語ってはならない。少なくとも、この日は読んでいなかったとしても、自分の本を書き上げるまでに、せめて日本語に訳された
「存在の詩」を読むべきだった。ぶらりと訪れたお客さんが、わずか1日で全体像が見えるものなど、どこにあるだろう。

 
オレンジ服たちは、うす気味悪いとさえ思う微笑を浮かべてダンスを続けている。力つきたのか、コンクリートにながながと伸びている男も女も多い。彼らが国を離れ、大学や職場や家庭を去り、多大な犠牲を払って何ものかをこうして求めているのは確かだ。
 しかし、そうまでして彼らが求めているものは何なのか。
p255

 立川武蔵という人は、仏弟子なのだろうか、あるいは、チベット密教の出家僧だろうか。この後、どうなったのか知らないが、この時点では、仏教徒でも探究者でもないようだ。仏教も宗教も何にもご存知ない。すくなくとも、「ゴータマシッダールタは、国を離れ、大学や職場を家庭を去り、多大な犠牲を払って」何ものかを求めた。そのことさえ、まったく知らないようだ。目の前のシッダールタ達が、何を求めているのか、まるで分からないのだ。

 チベット密教のルーツとなるサラハについては、さらに何も知らない。サラハは大学を離れ、経典を離れた。そして、本物を見いだした。そのようなことについて、立川のような根っこのない人に話しても、意味がない。二日目のアシュラム訪問では次のように書いている。

 ヨーガという宗教実践は、古代のインドにおいて、抑圧からの解放のために行なわれたわけではない。ヨーガは古代においては、ラージニーシの場合とは異なった使命をおびていたのである。極度の精神集中がその核心にあった。p259

 この前後の文章はめちゃくちゃである。引用して、ひとつひとつ正してあげたいところだが、誰よりも立川武蔵の名誉のために、割愛しておく。何もわからないまま、何も調べないまま、書きたい放題だ。この「アメリカ・インド探索行」は、ネットで検索してもほとんどでてこない。著者もあまり好ましい本だとは思っていないのかも知れない。日本国から文部省在外研究員として派遣されていた身だ。もうすこしまともなことを書けなかったのだろうか。

 2500年前に、ブッダの祇園精舎を立川が訪れたとしても、ブッタが説こうとしていたことを聞くことはできなかっただろう。現在では、彼はチベット密教研究家の立場を得ているようだが、私にとっては、この本において、彼の価値はさらに三文安いものとなった。彼の言説は、さらに割り引いて聞いていく必要がある。

 三つ子の魂、百まで、と言う諺がある。あるいは、縁なき衆生は度し難し、ともいう。なにも、ここでいきり立っていることもないかもなぁ、と思い直す。

 スーフィー・ダンスも終わった。日本人の一女性が、黒い髪を腰あたりまで垂らして踊っていたのが印象的であった。わたしは帰ることにした。ここを再び訪れることはないだろうと思う。p260

 と、立川が捨て台詞を残したプーナ1だが、この直後に日本からようやく到着した私は、それ以来、30年間、ずっと一貫してつながりを感じっぱなしなのである。

<3>につづく






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Last updated  2010.05.21 11:45:40
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