
ガラス玉演戯<2>
<1>よりつづく
図書館から借り出した本を、一冊一冊均質な読み方をするということは当然ながらできない。好きな本を早く読んでしまうか、ゆっくりと時間をかけて読むか、手元におくか、すっかり忘れてしまうか、それぞれだ。もちろん、もう読まなくてもよい、と思う本もあれば、途中で放りなげてしまいたくなる本もある。このヘッセの最重要な傑作とされる「ガラス玉演戯」は、私にとっては、ちょっと独特な味わいがあるようだ。少なくとも、いっぺんに読める本ではない。できれば、ゆっくり時間をかけて何回も読み返してみたい本の一冊だ。
そうして、この間、いろいろな本を間に挟みながら、同時進行で読んでいる。図書館にリクエストしている本も二桁あるし、読んでみたい本のリストは、三桁になる。だけど、以前に読んだのに、またリクエストしたりして、以前読んだのに、忘れて(というか勘違いで)しまっていたりする場合もあるようだ。
そのような一冊に「チベット密教」という本があった。ほんの数ヶ月前の読書なのだが、だいぶ印象が変わってしまっていた。もちろん変わったのは私のほうなのだが、この本の編者の立川武蔵という人に対するイメージが大きく変わったのが理由かもしれない。変わったといっても、以前何も知らなかったのだから、だんだん明確になってきた、と言っていいのだが。彼の共著は「チベット密教の神秘」1997, 2005、「マンダラ瞑想法」 1997、などを読んだのだが、結局は 「インド・アメリカ思索行」 1978に目を通してしまったため、決定的なイメージができてしまった。二度目の「チベット密教」には、不思議と強い違和感だけが残ってしまった。そこには、田中公明、正木晃、ツルティム・ケサン、など早々たる共著者たちが並んではいるのだが、編者の意向が反映されてか、こちらのハートを打つ何かがない。
豪華絢爛な羽模様をもつ昆虫類の標本を見せられている感じがする。美しい。すごい。なるほど、と思う。だけど、虫ピンで留められた蝶には、命がない。すでに死んでいる。生々しい躍動感、一瞬一瞬、次の瞬間、どうなってしまうかわからないような、不確定性が、失われている。そんな感じがする。それは、なにも「密教学」に限らず、他の宗教学や社会学などの本に触れるときも感じるときがある。井上順孝の「宗教社会学のすすめ」などを読んだ時もそんなイメージをつよく持ったのだった。
「ガラス玉演戯」はすこしづつ読んでいる。上記の私の雑感と関連しているかどうかはわからないが、一箇所、引用しておく。転記すべきところはたくさんあるのだが、ありすぎるので、転記してメモしておくより、全文を読んだほうが早い。まずはとりあえず、途中経過。
「もう一言、ついでに言っておくがね。たぶん君も、すぐれたガラス玉演戯者がたいてい若いときにするように、われわれの演戯を哲学するための一種の道具として使うような気になることが、ときにはあるだろう。わしのことばだけで矯正することはできないだろうが、念のために言っておくよ。哲学するには、もっぱら合法的な手段、すなわち哲学の手段をもってすべきだ。われわれの演戯は、哲学でも宗教でもない。独特な規範であって性格は芸術に最もよく似ている。特殊な芸術だ。この点を手がかりにしていけば、百ぺんも失敗を重ねた後に悟るより以上に、進歩することができる。哲学者のカントはもうあまり知られてはいないが、優秀な頭脳だった。彼は、神学的に哲学することを『幻影の魔法ぢょうちん』と呼んだ。われわれのガラス玉をそんなふうにしてしまってはならない」 「ガラス玉演戯」p116
つづく