
「芸術とマルチチュード」
アントニオ・ネグリ /廣瀬純 2007/05 月曜社 単行本 235p 原書2005
★★★★☆
マルチチュードに関するやさしい文献は少ない。あればもっといろいろ読んでみたいとは思うのだが、あるのはほとんど難解で、こちらの弱腰な好奇心をいっぺんに折ってしまうような、一言で言ったら「メンドクサソウ」な本がほとんどだ。しかも「超」がつく。このブログでも何冊か読んできた。
「<帝国>」2003/01 原書2000 以文社
「マルチチュード(上)」 2005/10 原書2004 日本放送出版協会
「マルチチュード(下)」 2005/10 原書2004 日本放送出版協会
「マルクスを超えるマルクス」 2003/09 原書1979 作品社
「非対称化する世界」 2005/03 以文社
「ネグリ生政治的(ビオポリティーク)自伝」 2003/03 原書2002 作品社
「現代思想」2005/11 特集マルチチュード 2005/11 青土社
ところが、訳者は次のように述べている。
「芸術とマルチチュード」は、これまでに日本語に訳されたネグリの著作すべてのなかで、疑う余地なく、もっとも強力に、もっともダイレクトに、そして、もっとも簡潔に、ぼくたちを革命へと導く著作である。なによりもまず、このことを最初にはっきりと言っておきたい。確実に、無媒介的に、そして、迅速に、ネグリの思考から触発を受けたいと考えている日本語読者には、彼のどの著者よりもさきに、本書を、「芸術とマルチチュード」を、手に取るよう強く勧めたい。p220
たしかに、この本は新書本に若干毛が生えたような分量で、なおかつ、具体的な人物にあてた書簡集という形をとっているので、ひとつひとつの文章が短く的確だ。書かれたのは1988年から2004年まで、ということになっているが、実は、書簡のあて先の人名は、架空の存在であり、読者に直接に出された書簡、ということになる。原書は一度1988年に出されたものだが、何ヶ国語かに翻訳されるあいだに、ネグリ自身によって毎度手が加えられており、この日本語出版にあたっても協力しているということだから、古書の翻訳ではなく、決定版の新刊書として読んでも構わないのだろう。
今日、散見されるのは、バーチャル化というものが、すべての記号あるいは信号の流れのディジタル化として、そしてまた、社会技術的かつ生産的な協働ネットワークあるいはコミュニケーション・ネットワークへのそうした流れのサイバネティクス的な統合として、卑属なやり方で定義されているという事態だ。こうした事態にかんして、ぼくたちの興味を引くことはふたつある。ひとつは、ヴァーチャル化についての上記のような卑属な意味と、コンテクストとの関連において決定される力能としてのヴァーチャリティ概念の存在論的構築とを差別化すること。そしてもうひとつは、<一般知性>の存在様式と生産様式とを明確にした上で、なんらかの新たな超越的美学---あるいは、フェリックス・ガタリのよって<地球規模情報化時代>と名づけられたものの諸条件の下で集団的身体性を構築するようななんらかの現象学---に属する諸特徴を明らかにすることの助けになるような、ディジタル技術のいくつかのアスペクトへと接近すること。p183
ふ~、こういう文章を毎日読んでいる人たちなら、なんのこともないのだろうが、おいらにぁ無理だ。一回読んだだけでは、何をおっしゃっておられるのやら、判明しない。関連の周辺記事を読んでいけば、ネグリはどうやら、インターネットやらオープンソース(フリーソフトウェア)としてのリナックスなどの成果に触れているらしい。しかも、それは革命の道具に成り得ると言っているらしいのだ。
以前、ネグリの本に目を触れた当初、このブログで私はこう書いていた。
このブログのイメージは幾段いままでよりは前に進んだ。
1)グローバル社会に対応する創造的なプログラマー
2)マルチな表現を理解する瞑想的なジャーナリスト
3)転生輪廻を自らの体験として理解する精神的なカウンセラー
この三人の要素が、やがて一つになっていくようなそんな方向で、このブログはひとつひとつの「壁」をとりはらっていくことになるだろう。
科学、芸術、意識、に対応する象徴的職業の象徴として、三つの職業を上げたわけだ。そして、その統合として、マルチチュードという概念は、「これからやってくる人々」がアイディンティファイすることができる方向性にあるのだろうかと、疑問をもちつつも大いに期待していたのであった。
この時、現代の「科学」に対応させているはプログラマーだ。門外漢の私は一口にそういってしまっているが、実は、この分野には、さまざまなジャンルがある。それと同じように、ここで「芸術」に対応させているのは「ジャーナリスト」だ。アーティストとジャーナリストでは、隔たりがありそうだが、まずはここでは表現者という意味で、一括しておいた。「意識」に対応しているのはカウンセラーだが、あえて古い言い方をするなら宗教的聖職者だ。この分野は、一番マルチチュード概念とは、折り合いが悪いかもしれない。
松岡正剛は、ネグリの「構成的権力」に触れている。私はまだ読んでいないが、松岡の解説を読む限り、なるほど、とわかるところがある。生粋のマルキストであるネグリは、かつてのプロレタリアートに対して、マルチチュードという概念を提出することによって、単に共産革命の夢を未来へとつないでいるだけなのだろうか。それとも、今後、他の潮流と大合併して、マスコラボレーション(シンギュラリティ)の中で、重要な道筋を作ろうとしているのだろうか。
いみじくも中沢新一は「芸術人類学」とやらを樹立しようとし始めている。芸術つながりで、「芸術とマルチチュード」と比較しながら読んだら面白いかな、と思ったりもする。思えば、二人とも、共産党家庭に育ったというところにも共通項があるかも知れない。
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2007/10/23再読