「ネット王子とケータイ姫」 <1>悲劇を防ぐための知恵
香山リカ /森健 2004/11 中央公論新社 新書 190p
★★☆☆☆
07歌川版「サイバージャーナリズム論」の中でスポンタ中村と対談していた森健という人物をもっとよく知りたいと思ったので、とりあえず目を通してみた。これは香山リカとの共著であり、いままでも背表紙は見ていたが、なかなか手は伸びなかった一冊。香山については、 「テレビの罠」を読んで、あまりにその内容の薄さに唖然として、それ以降は手をつけていなかったようだ。「スピリチュアルにハマる人、ハマらない人」なんて本も記憶があるので、ちょっと表紙ぐらいは眺めた記憶があるのだが、自分でも、どこに書き留めたのか探しきれない(汗。
で、森健という人と香山リカがどのような関係があるのか知らないが、まずは共著という限りはどこか波長があうところがあるのだろう。この本は、どこからどこまでがどちらが担当しているのかわからないので、ここでは一蓮托生ふたりまとめて、感想を書いておこう。
なにがどう気が食わないのだろう、といろいろ考えてみた。思いついた言葉は「カメラ視線」。目立ちたがり屋、ともちょっと違う。自分がカメラに映されていることを、必要以上に意識している。いや、それだけのパフォーマンスがあれば、それはそれでカメラのフラッシュを浴びるのは当然のことだろう。しかし、どうも彼女は中身のなさに比して、自らがカメラ(というか大衆の注目)の前に立ちたがる傾向があるような感じがするのだ。
犬が人が噛んでもニュースにはならないが、人が犬を噛んだらニュースになる、という定式がある。犬や人、という素材はごくありふれている。噛む、という行為そのものもそれほど珍しいことでもない。しかし、そのありふれた素材の、順番を組み替えるとそれは、ニュースとなる。香山が扱っている素材はごくありふれたものが多い。しかし、それを組み替えている。あるいは、組み換えが起こって注目が集まりそうなところに、速やかに自らの身を移動し、なるべくカメラへの露出度を高めているような気がするのだ。
どこかにどっしりと腰をすえて構えている風に見えない。感性といえば感性、才能といえば才能といえるかもしれないが、私にはどうもちゃらちゃらしている風にしか見えない。これが女性タレントとか、女子大生風のレポーターだとかしたら、わりと気にならないのだろうけど、その彼女が常にまずは「精神科医」という肩書きを表に出してくるところに、私はカチンと来ているのかもしれない。
精神科医、という職業の実態は、それほど快活で軽薄なものではない筈だ。語られぬ暗い深い部分があるはずだ。彼女は「精神科医」として勤務しているのだろうか。実際のひとりひとりの人間やクライエントに立ち向かい、時間をかけ、互いの人間性をさらけ出しあい、真っ当に人間対人間のふれあいを試みているのだろうか。もし彼女にそのような営みがあるのなら、その体験からにじみ出てくる叡智のようなものがあるはずだ、と、どこかで大きく期待してしまう、こちらの態度に問題があるのだろうか。
この本も、タイトルの軽薄さはともかくとして、扱っているテーマは、切り口いかんによっては、深く鋭い視点と言ってもいい。ただ、どうも上滑りしている感じがずっとしてしまうのだ。それは、「なぜ」なのだろう。
私が某心理電話相談に加わったのは30代の半ばの頃だった。まだ、自分自身が幼児や10代だった頃の体験をまざまざと記憶していたし、すぐ身近に小さな幼子たちを抱えての生活だった。だから、電話の相談者の話にも、割と共感を持って聴き話すことができたように思っている。
ところが当時の相談員訓練の希望者は年齢制限があった。58歳まで。つまり、訓練終了時に60歳以上になっていると、若い年代の気持ちがつかめなくなるので、60歳以上の方はご遠慮願いたい、ということなのだ。これは某電話では、いまでもそのシステムをとっているかもしれない。
さてさて、それからはるかに時間がすぎ、そんな私が、その年齢制限にさしかかりつつある年代になっているのである。つまり、私は、若い年代、特に小学生や中学生などの心は、もう読めなくなっているのかもしれない。すくなくとも期待されるべきみずみずしい感性など、期待されなくなってしまっているのかもしれないのだ。
考えてみれば悲しいことだが、それも仕方ない。自分の子供達が、乳児の頃や、幼稚園時代から、私は私なりに子供達の視線で、いっしょに遊んできた。町内会活動や小学校の「父親の会」、あるいは中高のPTAなど、あるいはそれ以降も、なんやかんやと子供や次世代の人間達の成長に関する会議やら活動に参加させてもらってきた。まぁ、すくなくともひとり分の活動としては平均値をクリアはしているだろう。
だが、それももう子供達が成人してしまったので、もう私の仕事ではないのだろう。今現在の小学生や中学生の問題は、その周囲の人たちが考えればいいのだ。いつまでも「先輩」面して、よけいなことはもうおしゃべりしないほうがいいのだろう・・か。
私が学校に紹介し、長いこと「心の教室相談員」を勤めていた同年輩の女性の友人が、最近、その職を辞した。臨床心理士の資格をもつ若い20代の女性に、その任をバトンタッチしたのだ。本来、人間経験のある年配のほうが味のある相談を受けることができるのではないか、とも考えてみるのだが、いや、たしかに論理も感性も、年齢とともに、磨耗してくることもあるかもしれないなぁ、と思うようになった。いやいや、それは彼女のことではなくて、私自身のことだが。
だから、まず、この本において、書き手たちに共感できず、テーマにおいても共感できかねる私には、この本をどのように読めばいいのか、図りかねたところがある。世代論でかたづけたくはないが、どうも、このテーマは私が追求すべきものではないようだ。思えば、モバイルゲームタウン(だっけ)なども、ニュースになる分には関心をもっているのだが、今の10代の感性につきあっていく体力も気力も、だんだん失ってきている。
だから、私はもう、ネット王子のことも、ケータイ姫のことも、想いをめぐらせるのはやめようと思う。そして、「パソコン爺い」でもやっていこうかな。本当はセカンドライフなども、年寄りの冷や水(といったって、今の人にはわからんかも)なのだが、まぁ、私なりに、最後の最後まで、無駄な抵抗はしようと思っている。それでも駄目なら、やはり、撤退だな。
森健については、この本でもわからなかった。それは森健に問題があるというより、私の側の問題意識の持ち方についての変化があるせいかもしれない。今後もすこしはこの問題を考えてみよう。
<2>につづく