「ゲドを読む。」
糸井重里プロデュース 2007/6 ウォルト・ディズニー・ジャパン社 文庫 p286 非売品
★★★☆☆
出てくる執筆陣がただごとではない。糸井重里、中沢新一、宮崎駿、河合隼雄、清水真砂子、上橋菜穂子、中村うさぎ、佐藤忠男、宮崎吾朗。これだけの日本エンターテイメント界の重鎮たちが、一堂に会して映画DVD「ゲド戦記」を応援し、しかも、この200ページを超える文庫本を110万部無料で配布したというのだから、大盤振る舞いである。
フリーペーパーの宣伝本だから、DVD「ゲド戦記」の悪口は書いていない。だけど、巷ではかならずしも好評とばかりもいかなかったように聞く。映画の興行、あるいはDVDの売れ行きはどうなのだろう。って、別に私が心配することもないのだが、「たかが」ゲド戦記に、これだけ浮き足立っているこれらの人々の足元が、なんとも寒々しく感じられるところがある。
巻頭の中沢新一の50ページ弱の解説は、なるほどと、中沢一流の読み解き方に納得するのだが、どこか寒い。このような「恣意的」な読み方が、中沢を中心として何事かを動き出させるのは良くわかる。しかし、ハメルンの笛吹きのような、狂言回し的でありながら、どこかに「邪」なる心の動きが見えているような気がする。もし中沢がこのようなところでこのような時間稼ぎができるなら、本当なら、島田裕己の「批判」にまっとうから応えてもらいたいものだと思う。
アーシュラ・クローバー・ル=グウィンは、そういう両親のもので育った人です。父親の蔵書も読んでいたでしょうし、先住民の友人知人もいたでしょう。ですから、彼女自身は白人社会で成長していますが、白人社会の「常識」とは違う認識、つまり「この地には、白人が訪れる前に、高貴な魂と偉大な文明を持った先住民がすでにいた」という認識がありました。p16
推薦文なのだから、リップサービスは当然のことだろうが、ここはちょっと、筆先というか口先が走りすぎていないかな。たとえば、「北米最後の野生インディアン」イシが、アメリカ社会に突如現れたのは1911年。日本で言えば、明治と大正のちょうど境目の年。この年代で、「高貴な魂と偉大な文明を持った先住民」というような明確なコピーなどはなかったと思う。そして、もし「ゲド戦記」がでた60年代末であるならば、かならずしも、ル=グウィンが社会的「常識」にひとり反旗を翻したという形ではなかっただろう。アメリカの「常識」自体がネイティブ・ピーポーへの視点を変えていたのだ。
まぁ、ちょっと揚げ足取りになってしまっているが、中沢のいわんとするところはそれはそれでいいのだが、ちょっと大げさだ。そして彼のアジテーションにまんまと乗せられて、どこかの「良家の子女が暴走」することがあっても、彼はきっと、知らぬ存ぜぬを決め込む可能性があるのだ。すくなくとも、麻原集団事件の結末から考えれば、彼は、再びその愚を犯すかもしれない存在であることを忘れることはできない。
DVD一本に、本来、科学者や作家という、中立で自由であるべき立場にあるものたちが、ステーク・ホルダーとして、おべんちゃら、ちょうちん記事を書くようになったら、これは怪しいと思っておいていいのではないだろうか。この小冊子は読む価値のある本ではあるが、その辺を割り引いて読んでおきたい。他の人々の文章については割愛するが、「ゲド戦記」に思い入れがある人なら、ぜひ一冊手にいれて読んでみたいと思うに違いない。