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カテゴリ:シンギュラリタリアン
「存在することのシンプルな感覚」 ケン・ウィルバー /松永太郎 2005/11 春秋社 単行本 p388 原書The Simple Feeling of Being : Embracing Your True Nature 2004/7 No.813おすすめ度★★★★★+★★ この本を手にとってまず感じた不満は、この本がケン・ウィルバー自身の書き下ろしではなかった、ということである。最も新しいウィルバーの心境を知りたいという私の想いは、まず簡単に裏切られた。原書が2004/7に発行されたとはいえ、この本は、「これまでにウィルバーが刊行した書籍のなかから、『エッセンス・オブ・ウィルバー』とでも言うべき文章を4人の編者がセレクトして編んだものである」訳者あとがきp382ということだ。インターネット時代にあって、ウィルバーの統合理論(インテグラル)はいかに変容を始めているだろうか、というデバガメ的関心はまず裏切られた格好だ。 世界はなすべきことをなす。ちょうど、心的な段階へ集団的に移行するのに農業、次に工業を学習して、物質的段階を通過しなければならなかったように、情報、コンピュータ、テクノロジーなどを学習して心的な段階を通過し、こうしてそれを超越するスピリチュアルな段階に行こうするだろう。率直に言えば、世界は快適なスピードで飛ばしていると思う。---「パラダイムの戦い」(CW4:179) p144 この辺は、まさにアルビン・トフラーの「第三の波」を彷彿とさせるパラダイムだ。文末のCWとはThe Collected Works of Ken Wilber『ケン・ウィルバー集成』を表わし、数字は巻数とページ数を表わす。 わたしたちには新しい公案が与えられている。それは新しい永遠の哲学(ネオ・ペレニアル・フィロソフィー)だけが、答えられるものだ。「コンピュータに仏性ありやなしや」。---「統合心理学への道」(CW7:475) p149 犬に仏性ありやなしや、という公案ばかりでなく、コンピュータに仏性ありやなしや、という科学的最先端テクノロジーについても論じてほしかったな、という思いがある。 こうして、「スピリット」は画鋲にもコンピュータにも、蛇にもアダムにも、さらには「塵」と「神体」にも、平等に内在しているのである。p328 おっと、思う部分ではあるが、これは4人の編者のうちの一人のだれかが書いた部分であった。意図的にこれらの部分を抜書きをしてみたが、この本においては、このテーマはまったくごくごく一部を成しているにすぎない。この本においては「私は誰か」「瞑想」「スピリット」という三大話が延々とでてくる。まさにケン・ウィルバー本の三位一体モデルともいうべきキーワードだ。 「スピリット」とは、すべての事象のありのままの姿である。それは完全にすべてのものと一緒である。したがって、それは何も特別なものではない。薪を割り、水を運ぶのみである。このため、この段階に到達した人はきわめて普通の人として描かれる。かれらには何も特別なことはないのである。これは賢人の道であり、あまりに智恵が深いので、この人だといって指し示すことは難しい。普通の人の間に入って普通に暮らしているからだ。「十牛図」は、悟りへいたる賢人の道を描いたものであるが、最後の図は、普通の人が市場へ入っていくところである。手を広げて、市場へ入るとある。この言葉が、すべてを尽くしている。---「グレース&グリッド」(CW5:228) p230 まずはここがでてしまえば、物語はすべて原初に帰還する。流れ上、このエントリーは「シンギュラリタリアン」に連ねるが、意味的には「マーケットプレイス」につながる部分である。 シンプル・フィーリング・オブ・ビーイング---ただ、ここにいるというシンプルな感覚、そこでは嫉妬も羨望も何も意味ももたない。すべての幸福はわたしの幸福である。すべてのさびしさは、わたしのさびしさである。そのために、逆説的にだが、苦しみはやむ。涙がやむことはない。微笑がやむこともない。ただ、この誰かであるという、この狂った感覚がやむ。誰かである、ということがやむ時、心身が脱落する時、「私---私」は、空性となって、すべての形態を抱擁する。すべては、このシンプルな、ただ、ここにいるという感覚のなかに与えられている。わたしは、「ある」という感覚、純粋な現前、非二元の「ありのままの姿」である。わたしは、ただ「ある」。わたしは「これを感じたり、あれはを感じたり」しているのではない。ただ、ある。わたしはこういう「あり方」、ああいう「あり方」からは解放されている。それはただ苦しみの形にすぎない。わたしはこのシンプルで、何の努力もない、ただあるという感じにとどまっている。その時、すべては与えられているのだ。 あなたは、すでに、このシンプル・フィーリング・オブ・ビーイング、ただ、今、ここにあるというシンプルな感覚にいる。そう、それでもう一度、教えてほしい。いったい、悟りをひらいていないものなど、いるのだろうか? ---「ワン・テイスト」(CW8:559-560) p286 この部分がこの本のタイトルの元となる部分である。ここを抜書きしてしまったら、あとは何を続けたらいいのか。 ぼくは、この音楽が気に入った。半分ぐらいの男たちは---ここには女性はいない、また若者もいなかった---お互いの肩に手をかけて、輪になって踊っていた。ぼくには、あの『その男ゾルバ』の踊りに似ていると思えた。時おり、いっせいに足を上げる。ぼくは一人でバーに座り、頭を抱えた。ビールがでてきたので、どこから出てきたのか考えず、一息で飲んだ。もう一杯現れた。ぼくはまた飲み干した。ここにあるビールを全部、飲んでしまおうと思っているのだ、と感じた。「グレース&グリッド」(CW5:361-363) p77 ウィルバーについてはまだ半分も読了していないので、この本で断片的に読めた部分があったのはよかった。また、日本語訳がないものもある。あるいは、他者の本の巻頭文として描かれたものも含まれているので、これはこれで貴重な体験であった。 「地球人スピリット・ジャーナル」としては、一つのランドマークとして、この一冊を基準にすることはよいアイディアだ。いろいろ書き足りないことも多々あるが、それらは、後日に回そう。この世にオメガ・ポイントはないのだから・・・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.02.11 20:10:17
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