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| 22番目のカテゴリー
和尚ガイドブックという本を店頭で見つけたときには、非常に奇妙な感じに襲われた。なんだか変なおっさんがでてきてしまったなぁ、まったく。いい加減なこと書いているわけじゃないだろうなぁ。だいたい、誰に断って、こんな本を書いてんじゃい。・・・・こんな感じだったと思う。手にはとってみたものの、他のOshoの本とエネルギーが違うし、読む気にもなれないので、そのまま放置しておいた。 しかし、だんだんと月日がたつうちに、どんどんシリーズ化して、巻数が増えていくと、あんまり気持ちいいものではなかった。このおっさんは一体なにを考えてこんなことやってるんだろうなぁ、困ったもんだ。まさか、その本を自分が後から購入して、読んで感心するなんて、思っても見なかった。 ビレッジヴァンガードという本屋は大好きな本屋なのだが、なぜか困った点がいくつかある。ひとつ。パソコン関係の本がほぼ一切ない。ふたつ。あまりに面白い本がありすぎて、一冊だけ選んで本を買うという気になれない。買うなら店全部を買ってしまいたくなる。だから、しょっちゅうビレヴァンに行くけど、本を買ったことはほとんどない(店員さん、ごめんなさい)m( _ _ )m。 ところが、私のいくビレヴァンにはどうやらOshoのまわし者がいるらしく、要所要所のOshoグッツが置いてある。私は普段からの不義理を恥じて、このシリーズはビレヴァンから購入した。なんでそんな段取りになってしまったかはともかくとして、このシリーズ4冊は稀有な本だと思う。 サニヤシンがこの本を書いたするなら、きっと周囲からブーイングがでたはずだ。いやいや、他の人々が静観したとしても、まず私がトップバッターでブーイングしたに違いない。こまったなぁ、サニヤシンじゃぁないから、こんな本を出してもしかたないか、てな感じで、まぁ許してやるかぁ、的な態度であった。 でも、手にとってゆっくり読み、玉川信明という人のことを知るにつけ、この本は、きわめて希れなタイミングで出来た本だったのだ、ということに気がついた。サニヤシンにはできない。でもOshoに関心のないひとには、ますますできない。サニヤシンじゃなくても、Oshoにあふれる愛情を感じた人が、あふれるままの情愛の中で、切に切にOshoを求めた結果がこのシリーズだったのだ。 日本語に訳された本だけで形成されているというのも、きわめて希れな出来事だと思う。通常なら、Oshoの本は山ほどあるので、他の未訳の英文ものも入れたくなるものだ。しかし彼はそうしなかった。だから、きわめて日本人的理解、日本人社会的Osho理解の本ができた。いい加減、切り張りにされており、おいおい、どこからどこまでがあんたの言葉で、どこからどこがOshoじゃい、と叫びたくなる。まぁ、ある意味、やりたい放題だ。でも、結果的に憎めない。 そして、もうひとつ希れというか、必然というか、結果的にそうなったにせよ、素晴らしいと感じる現象がひとつある。それは玉川はOshoを4つの切り口で解釈を試みようとしたことだ。「トランスパーソナル」、「禅」、「性愛」、「聖典」の4つだ。インドでは、エネルギーを3つのグナとして捉えることがある。タマス・グナ、ラジャス・グナ、サット・グナ(だったかな)と言われるが、その解釈はともかくとして、玉川は玉川の直観で4分類した。 Oshoをどのように見るかは、それぞれ自由だとして、例えば、青年期からアチャリア時代までを、マスターと弟子の出会いと捉えた「ウパニシャッド」期。第一プーナ時代を瞑想のテクニックや技法を強調した「タントラ」期。オレゴン時代を無言の意志としての「禅」期。そして第二プネー時代を「トランスパーソナル」期と、仮に捉えてみようではないか。そうしてみると、見事に玉川の仕事は一冊一冊が、その4つの時期に対応していることになる。 しかし、玉川のしごとは、この4つの局面からOshoを愛したことで終わった。それは残念ながら(というべきかどうかはわからないが)彼の命が尽きたことに機縁する。もし、玉川が生きていたら、この後、多分、数冊出しただろう。少なくとも、これでは終わることがなかったはずだ。玉川は、Oshoをケン・ウィルバーを引き合いに出して、トランスパーソナル心理学的に理解しようと試みている。だが、ウィルバーはすでにトランスパーソナルにはいなかった。ここも日本語的な理解の限界である。 玉川本を読んで感じるのは、このシリーズはこれでいいとして、この次のステップが必要だということ。ケン・ウィルバーにあわせればインテグラル的に理解しなおす必要があるということだ。あるいは、まだうまくはいえないが、このブログでのこのカテゴリでやろうとしているようなやり方で、すくなくとももう一冊は出すべきだったのだ。 転生というものが本当にあるとして、あるいは玉川がそのサイクルにあるとして、すでに2年前に彼はなくなってしまったとしたら、彼は今、一体どこにいるのだろうか。もし彼に機縁があって、すでに転生していたとしたら、晩年になって強烈にOshoに近づいたこの人は、間違いなく、新たなるOshoブッダフィールドのただ中に生まれただろうと推測する。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.04.11 12:38:43
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