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テーマ:人間とは何か(26)
カテゴリ:スピノザ
このブログは、哲学全般を理解することも、特定の哲学者の思想を理解するこことも目的ではない。グローバルなネットワーク社会が、人間の意識にどのような変革をもたらし、生態系をも含む地球全体がどうあるべきかを探求しよう、というのがとっかかりだった。キーワードはマルチチュード。その語源を知るためにスピノザへと降りてきている。 自分の死をどう考えるかは、哲学上の大問題です。p15 日本でも、禅の高僧が悟りを開いて、「生死一如」の境地で生きるなどとよく言います。しかし、どこまで信用していいのかは疑わしいですね。仏教の悟りの境地は、生と死を一緒いとられて生きることでしょうが、そうしたことが人間にとって可能なことなのかどうか。それに哲学的な知は宗教的な悟りとはやはり違うように思います。p16 宗教的な悟りについては、別に日本だけの理解ではないのだが、この著者においては、その西洋哲学的な思索に反して、こちらについての記述はほとんどない。この本自体、「わかりにくい」哲学をわかりやすく説いてくれている、という意味では大成功していると思うので、「悟り」についての言及については、多くは望まない。しかし、当ブログは、その辺に強い関心をもっているのは事実だ。 「哲学」といっても、ソクラテス/プラトンあたりからヘーゲルあたりまでのいわゆる超自然的思考としての「哲学」と、ソクラテス以前の自然的思考や、そしてそれを復権することによって「哲学」を批判し解体しようと企てるニーチェ以降の「反哲学」とは区別して考える必要があります。それを一緒くたにして考えようとするから、なにがなんだか分らなくなる。p23 その道の教授にズバリこう言っていただくと、とても分りやすい。つまりはプラトンとニーチェをとにかく捉えておけばいいのであり、ある対称軸を引いてみれば、その二つはまさに反対のことを言っている、というのである。さて、われらがスピノザは、というとニーチェ以前の歴史の中にあるのだが、プラトンからは遠くへだったっていて、なおかつ、ニーチェの登場の下ごしらえをしていた、という位置になるのであろうか。 もともと「哲学」という言葉自体が、西周(にしあまね)による明らかな誤訳なんです。p31 なるほど。このように紐とかれると、とてもわかりやすい。やはりそうであったか。 日本には、フィロソフィアに対応する言葉はありません。ヨーロッパでも事情は同じで、ラテン語でさえ基本的にはギリシャ語の音を移しているだけです。ヘーゲルではないけれど、もし生活に本当に必要なものだったら、どの言語にもこれに当たる自前の言葉があっていいはずでしょう。欧米の場合は、日本のように誤訳ではないまでも、ギリシア語の音を自分流の表記の仕方で移しているだけですから、考えてみればこれはこれで妙な話です。p34 哲学は「生活に本当に必要なもの」ではない、という達観もすばらしい。だが、もし言語がないから、「不要」だとするなら、西洋においては「悟り」という言葉に対応する言葉もないだろう。 「ソクラテスは極めつきの皮肉屋、というぐらいに考えていた方がいい」と喝破する著者の語り口についつい引きつりこまれる。 「存在とはなにか」などと大上段に構えると、まるで禅の偈(げ)の「本来無一物」みたいに、宗教的な境地をもとめているように聞こえて、困惑する人も多いでしょう。しかし、これはそんなに神秘的な答えを求めようという問いではなく、「ある」ということはたとえば「つくられてある」という意味なのか、「なりいでてある」という意味なのかを問おうとするものなのです。p41 いえいえ、禅の宗教的な境地やらと同じく、「意味を問おう」とする道も、ただごとではない。 明治初期に西洋哲学が輸入されたとき、この言葉も入ってきたのですが、その輸入に尽力した人たちはこの言葉を素直に「超自然学」とは訳さず、「形而上学」というむずかしい言葉を造ってこれを訳語にしました。「易経」にある繋辞伝にある「形而上者、謂之道、形而下者、謂之器」(形より上なるもの、これを道と謂い、形より下なるもの、これを器と謂う)という有名な一説にある「形而上」ちう言葉がmetaphysicaと同義だと思われたのでしょう。中村正直か井上哲次郎かの造語だと推測されていますが、日本ではそのまま、この妙な訳語が定着してしまったのです。p82 次から次と、無学な私にとっては初めて聞くような哲学にまつわる話なので、痛快な感じがする。なるほど、と目から鱗が落ちる思い。 17世紀から18世紀にかけて、世界の存在構造についての独断的な理論を繰り広げるいわゆる「理性主義的形而上学」の体形が次から次につくられました。新カント派系統の哲学史では、島国イギリスに対して、フランス、オランダ、ドイツなどヨーロッパ大陸の哲学者、たとえばフランスのデカルト、マルブランシュ、オランダのスピノザ(1632~77)、ドイツノライプニッツ(1646~1716)などの哲学体系がこの名で呼ばれていました。スピノザやライプニッツの哲学を単なる理性主義で片づけることはできないと思いますが、この人たちが、自分が経験したかぎりだいたいそうだったという、単なる蓋然的真理性しかもたない経験的認識より、普遍性と客観的妥当性をもつ理性認識を重視したとは言えそうです。p142 ようやくスピノザの名前を発見してホッとした。このような文脈でスピノザを見ると、なるほどと納得できるところがある。 なるほど、そうだったのか。そういう背景がわかってくると、なんだか哲学というものが少しだけ身近なものに感じてしまうのだから、不思議。
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