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<5>よりつづく この男が好きでないのに、追補の中でこれを思い出したのは、・・・私が嫌いなのは哲学の方かもしれない・・・・。そうだ、それを哲学と呼ぼう、本人はそれを反哲学と読んでもらいたがっていたが。私がそれを反哲学と呼べない理由は簡単だ。あらゆる反哲学は、結局はもうひとつの哲学にすぎないことを、自ら証明することになるからだ。存在は、哲学的でもなければ、反哲学的でもない・・・それは、ただ在る。p138 私がこの本を含めたのは、彼のやった仕事が大変なものだからだ。これはかつて書かれたものの中で、大変は手腕と大変な論理を駆使して書かれた最も記念碑的な書物のひとつだ。しかもなお、本人のごく普通の、ひとりの共産主義者にすぎない---それが私が彼を好きではないもうひとつの理由だが。存在を知っている人間は、共産主義者などにはなりえない。平等などありえないことを知ることになるからだ。不平等こそがものごとのありようだ。何ひとつ平等ではないし、また平等ではありえない。平等とは夢にすぎない。愚か者たちの夢だ。存在とは、多面的な不平等性だ。p138 通常に哲学の流れにあるように思われている哲学者たちも、Oshoにとっては、哲学者ではなく、別な名前で呼ばれるべき存在があるようだ。それは詩人とか、神秘家とか、光明を得た者とか呼ばれる。ポイントはその光明のほうにあって、共産主義の平等などはたわげた夢ということになる。 私は「平等」という言葉は好きだ。上でもなく下でも、同じ地平に立って手を取り合う、というイメージは、むしろ根本的な基本とも言える。Oshoの言説は、常に一様ということではなく、時と場合によっては大きくニュアンスが変わることがある。だからまだ平等という言葉のもっている可能性については、私はそっと自分の胸に抱いておく。 しかし、マルキストのネグリたちが<帝国>とマルチチュードを対峙するような形での「平等」主義については、Oshoにとっては収まりの悪いものとなろう。あるいは、むしろOshoの見方のほうに分があって、共産主義国家の低迷やその運動などが限りなく下火になっている事実を考えると、やはり、このまま共産主義はかぎりなくフェードアウトしていくことになるのだろうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.01.27 09:45:51
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