
<初読>よりつづく
「スピノザ 共同性のポリティクス」 <再読>
浅野俊哉 2006/3 洛北出版 単行本 302p
手当たり次第に目についた本に手を出して、さらっとメモしておくことも悪いことではない。そして、あらためて巡り巡って再読してみると、、ますますその価値の重さが分ってくることもある。この本はまさにそのような本の一冊と言えるか。前回は、後ろの方をつまみ読みしたあとに、ついでに前の方をみてみた、という感じだった。今回は、最初から読んでみた。
Oshoがソクラテスやニーチェを最大限に評価し、その前後に触れる時、なにはともあれ、この二つの足がかりを貴重な立脚点として、全哲学史をふり返ってみることも面白い。ソクラテス以前のギリシャ哲学、あるいは、ニーチェ以後の実存哲学などについても、ふり返ってみる必要がある。ソクラテスからニーチェまでの間において、西洋においてはキリスト教が大手を振って世を仕切っていたことはわかる。しかし、果たして、ニーチェ以前の西洋哲学の中になにかのほかの足がかりはなかったのか。
「これらのことを話したのは、私の喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためである[ヨハネ15:11]や「主において常に喜びなさい。重ねていいます。喜びなさい」[ピリピ4:4]といった数多くの聖句に表れているように、キリスト教の伝統においても、喜びという感情は少なからず重要な位置を占めてきた。しかし、哲学者の中で、信仰とは一切無縁の形で、(快楽ではなく)<喜び>の価値を最前面に打ち出し、しかもそれを倫理学・政治学の基礎としても提示したのは---二百年後にニーチェがその「矢」を独自の仕方で放ち直すのだが---、17世紀オランダのスピノザが最初だった。p13
う~~ん、なんとも感動的な文章だ。ニーチェに先立つこと200年前、スピノザはひとり、何事かを始めていたのである。
ゲーテをして「かくも決定的に私に作用し、私の思惟方法全体にかくも大きな影響を与えたに違いないこの精神」と言わしめ、ニーチェを「私はすっかり驚いてしまった。夢中になっている。私には先輩がいるのだ。[・・・]私の独りぼっちは、少なくとも今は二人ぼっちになったのだ!」と感激させたスピノザ。ロマン・ロランの、ヘンリー・ミラーの、ボルヘスのスピノザ・・・・・。ある時には、「魔女の箒に乗ったよう」と形容され、またある時には、「何か微妙な極めて軽やかな空気のようなもの」と表現されてきたスピノザ---実のところ彼の思想は、その名前も著作も知らずに生きている大多数の人々にとって、「わからない」どころか、日々それを行い、そこで描かれた感情や表象に翻弄されている自分たち自身の<鏡>なのである。p17
ニーチェをして「私の独りぼっちは、少なくとも今は二人ぼっちになったのだ!」と言わしめた、スピノザ。四国八十八箇所の霊場めぐりのお遍路さんたちが、弘法大師空海を導師として、「同行二人」とつぶやいているのを彷彿とするようだ。
様々な視点からスピノザの読み直しは行われているが、あえてその主たる主潮を分類すれが、少なくとも二つの方向性を見いだすことができるのではないかと思う。第一の視点は、スピノザをマルクスとの連関の中で読み直そうとうポジションであり、第二の視点は、マルクスのみならずむしろニーチェとの結びつきを強調することで、第一のもの以上の展望を獲得しようと試みるものである。p32
第一の立場にあるのは60年代のアルチュセール派とされ、「ヘーゲルかスピノザ」か、などにおいて結実しているとする。第二の立場は、「結果としてニーチェに依拠することで、第一の立場よりラディカルに、スピノザを、弁証法的思考様式全体への批判者として位置づける」p33とする。第二の立場を代表するのはジル・ドゥルーズとアントニオ・ネグリであるp37とする。
ネグリの象徴的な言葉で言い表せば、現在明らかにされつつあるスピノザは、過去のしめつした遺物どころではなく、いまだ誰もその哲学を完全に把握したことも生きたこともない来るべき哲学、<未来の哲学>としてのスピノザなのである。p53
本書においては、よくよく読んでみれば、スピノザ賛辞のオンパレードである。あちこちにきわめて興味深いことがたくさん書いてあることを、再読してようやく気がつきはじめた。Oshoがスピノザを評価したものはまだ私は見ていないが、Oshoとスピノザの間にニーチェを介在させることによって、スピノザ以前、そしてOsho以後まで見えてきそうな気がするのである。すくなくとも、世界が広くなる。
この本においては、ノルウェーの思想家アルネ・ネスのディープ・エコロジーやエコフィロソフィーp145、アンドレ・ゴルツが70年代から警鐘を鳴らしていたとするエコ・ファシズムp169などにも触れている。いわゆる環境保護主義的な立場からスピノザが読み直されているという事実は興味深い。
このような<帝国>とスピノザの思想がどのような点で結びつくのだろうか。それは、<生--権力[bio-pouvoir(生を対象にする権力)]>の貫徹としてとらえられたこの<帝国>に対抗するための最も主要な拠点/器官として、スピノザが「政治論」で展開した、<群衆--多様性[multitudo]>という概念(実体を伴った)が用いられているからである。p204
マルチチュードの語源は、「政治論」であったか。この本は、前回読んだところとまったく違うところに興味引かれるところが多かった。もうすこし時間が経過して読んだら、さらにまた別な発見があるかもしれない。