<1>よりつづく
「ツァラトゥストラ(上)」 <2>
Oshoは「私が愛した本」の中で、カリール・ジブラーンの本を9冊取り上げている。多分、ひとりの人間の作品としては一番多いだろう。それだけ、この作家を愛しているといっていいだろう。その中でも、筆頭にあげているのが、「預言者」だ。その美しさを愛でつつも、Oshoは、シンプルに言い放つ。
カリール・ジブランの「預言者」だ。私がたやすく「預言者」を落としてしまったのは、これがニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」の反響にすぎないという単純な理由による。我々の世界では誰ひとり真実を語るものがいない。我々はあまりにも嘘つきで、あまりにも形式主義的で、あまりにも礼儀正しい。「預言者」はツァラトゥストラを反響しているために美しいだけだ。「私が愛した本」p18
「ツァラトゥストラ」を読んでいると、ここでOshoが言わんとしていることがよくわかる気がする。ジブラーンは、定式化していて詩文としては面白いし、警句に満ちている。軽妙だ。しかし、ツァラトゥストラは、ある意味、難渋に満ちてもいる。その意味では、まるで、このニーチェのツァラトゥストラは、他のなにかの反響でもあるように思えてくる。それは誰あろう、イエス・キリストだ。
組織宗教としてのキリスト教については知らないが、青年イエス・キリストの言行と、ニーチェのツァラトゥストラは、どこかで通じているのではないだろうか。ヘルマン・ヘッセの「シッダルタ」が、いわゆるお釈迦さんと通じるよりも、どこか西洋化されているのを感じるように、ニーチェのツァラトゥストラは、本来のゾロアスターより、よりキリストに近い西洋文化の影響を受けていると感じる。
あるいはまた、この本を読んでいて背中がぞくぞくとするのは、どこかマルクスの「共産党宣言」にも通じるところがあるような気がする。「私はこの小さな本『共産党宣言』が大好きだ。この本の書き方が大好きなのだ---内容ではない、スタイルだ。」とOshoがいう時、ニーチェのこのツァラトゥストラが持つ、ある「宣言」性、マニュフェスト性を重ねて、評価しているように思えてくる。
ある夕方、ツァラトゥストラは弟子たちと共に森の中を通っていた。彼が泉を探し求めていると、いつしか樹立(こだち)と茂みにひっそりと囲まれた緑の草原にきていた。その草原では、なんと、妖精たちが歩調を合わせて踊りを楽しんでいた。ツァラトゥストラの姿を見つけると、妖精たちは踊りを中断した。だがツァラトゥストラは、好意的な身振りで彼らに近づき、このような言葉をかけた。
「可愛い妖精たちよ、踊りを続けるがよい! 楽しみを台無しにする者が邪なまなざしをして、おまえたちのもとにやって来たわけではない。わたしは妖精の敵ではないのだ。
私は悪魔に対しては、神の代弁者である。その悪魔とは、重因の魔である。軽やかに舞う生命(いのち)よ、どうしてわたしが神々しい踊りの敵であろうか? どうしてわたしが、美しいくるぶしをもった妖精たちの足を、目の敵にする必要があろうか?p177
当ブログにおいては、妖精は、正直あつかいにくい。思考の回路の中に、このコンセプトを入れ込む余裕はあまりない。せいぜい最近、「フィンドホーンの花」や「天使の歌が聞こえる」を読みながら、ふむふむ、と鼻がむずがゆくなるのを感じている程度のところだ。しかしニーチェのツァラトゥストラは「私は妖精の敵ではない」と宣言する。「神々しい踊りの敵ではない」と言う。
<下>につづく