地球人スピリット・ジャーナル1.0

2008/02/01(金)09:30

現代の哲学 <2>

スピノザ(108)

<1>よりつづく 「現代の哲学」 <2> 木田元 1991/04 講談社 文庫 248p  この本、1991年初版となっているが、実際には1969年に書かれたものである。当ブログでは数冊しか読んでいないが木田には多数著書があり、訳書を抜けばほとんどこれが処女作といっていいものだろう。他の「反哲学入門」や「反哲学史」などのタイトルの整合性から考えれば、「現代の反哲学」というタイトルになっても可笑しくはないが、この本には反哲学という言葉はでてこない。その代わりといってはなんだが、反人間主義、反ヒューマニズム、反歴史主義、などの文字は見える。  69年といえば、私は中学三年生、正月あけに、テレビにながされた浅間山荘事件の中継映像をみながら、こたつでミカンをたべていた記憶がある。体制派か反体制か、左翼か新左翼か、過激派か右翼か、なんてことはもはやどうでもいい(でもないかな、まだ)時代になってしまったが、当時15歳の私にも、まだ、この段階では、正直どうでもいいことだった。 しかしその当時、すでに木田はこのような現代思想の潮流をすでに俯瞰していたのである。はて、彼は、どのような位置に属していたのだろうか、などと思いをめぐらしてみる。その自叙伝の中では、学生対策に翻弄されたようないきさつが書いてあったので、少なくとも学内闘争のバリケードの内側にいた人ではないようだ。  66年にビートルズが来日したのが私が中一の時。69年の春には高校にはいり、翌70年には小田実がやってきて、そのデモンストレーションに参加した。現代の16歳としては割りと早熟であったかもしれない。早い遅いはともかくとして、あの時代はそういう時代であった。自分の問題、社会の問題、人類史の問題、すべてにおいて混沌としたなかで、暗鬱たる青春を送っていたことも確かだ。 あのような時代背景の中で、すでに木田はこのような仕事をしていたのだ、ということに、何はともあれ留意しつつ、やはり、今、この本を読んでも、私個人が、「これだ!」This is it!と感嘆を上げるほどのことを見つけることはできない。しかし、あれから3~40年経過し、時代の裏で、低音でベースのリズムを刻み続ける思想的潮流が、この「現代の哲学」に表現されているかのようだとも思う。すくなくとも、この本がいまだに読まれているということは、そのあたりを的確に捉えていたからだろう。  メルロ=ポンティ、レヴィ=ストロース、いわゆる構造主義、マルクス、ウェーバー、サルトル、・・・・・興味深さそうなところにいくつかの付箋を差し込んでおいた。全体を俯瞰するにはおおいに役立ちそうな一冊だ。しかし、哲学が哲学として、他の世界から断ち切られた古色蒼然とした図書館の奥まった薄暗いコーナーにとどまってしまってはいけない。 メルロ=ポンティ自身もあるところで、哲学というのは「どこにもありどこにもない」ものだと言っているが、たしかに哲学というものは知のどの領域にでもあるが、といって哲学に固有の領域などというものはどこにもないようである。むしろこういうふうに、当代の政治や科学や文化の諸領域と積極的な対話を試み、そこに共通の志向を読み取るというところにこそ、哲学の固有の使命があるのではないか。p220(現本あとがき1969)  著者には他に「現象学」、「哲学と反哲学」などの著書のほか、多数の訳書がある。 この項、完。

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