
「西田幾多郎」新装版 近代日本の思想家7
竹内良知 2007/9 東京大学出版会 全集・双書 294p 初版1966/8
No.1022★★☆☆☆
この本、初版が1966年。1970年に選書版がでて、なおかつ2007年に新装版がでている。著者もすでに1991年に亡くなっている。ごくごく最近になってこの本がでているということは、それほどに人気のある本ということになるのだろう。
西田幾多郎という人、全体像がまだ見えないが、挫折や落第したり、子供を亡くしたりしたりするけれど、割りとおとなし目の人柄だったのだろうか、と感じる。そういえば、戦前派であるからしかたないかもしれないが、外国体験をすることもなかった。そのチャンスを与えられなかったということだろう。
「私の生涯は極めて簡単なものであった。その前半は黒板を前にして坐した。その後半は黒板を後にして立った。黒板に向かって一回転をなしたといえば、それで私の伝記はつきるのである。併し明日ストーヴに焼(く)べられる一本の草にも、それ相応の来歴があり、思出がなければならない。平凡なる私の如きものも60年の生涯を回顧して、転(うた)た水の流と人の行末という如き感慨に堪えない。」p2
この本、5章立てだが、その真中である第3章は50ページあり、その章題は「只管打坐」である。このような評伝を書かれる人のことだ。いずれはじっくり拝読しなくてはならない。
「見性」を印可された西田は、「悟得」された「一大真理」を「今日の学理にて人に説」くために、自らの哲学学説の構築にとりかかった。そのとき、彼においては、「見性」において直接体験される「正念」こそ「吾が之を曲げんとしたればとて曲」げることのできない「宇宙の大法」であり、もっとも根源的な真の実在であって、理性によって把握することも理解することもできないという信念、したがって、宗教的体験こそ哲学の「基礎」でもあり、「終結」でもあって、哲学が宗教を対象として解明し、批判することはできないという信念、----西田の表現にしたがえば、「どこまでも直接な、もっとも根本的な立場から物を見、物を考え」ようとする態度が、すでに、ゆるがぬものとして固まっていた。p176