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カテゴリ:スピノザ
荒岱介(あらたいすけ)の本は何冊か読んできた。関連で廣松の本も読んだが、その中でも、この本が一番わかりやすく、当ブログの関心によりフィットした内容になっていたと思う。もっとも、刊行日も近く、テーマもそこに向けられていたから、ということができるからだが。 目次を見て、まず視野に飛び込んできたところは「第七章 21世紀はマルチチュード運動」というところ。20数ページの決して長文ではない章立てだが、マルチチュード→スピノザ→現代人として、どう生きる(エコ?)というあたりに、荒岱介というキャラクターがどうアプローチしているのか、という周辺がよくわかる。廣松渉という人は、この本のタイトルになってはいるが、私の関心は、むしろ荒本人のほうにある。 『<帝国>』を書いたアントニオ・ネグりもジル・ドゥルーズも、レーニン主義などの「何々でなければならない」というゾレン主義に収斂さえるイデオロギーとは違う思想を、実は人類は持っていたはずだと考えた。それで現代思想の源流となる考え方を探していったときに、啓蒙的理性とは違うものとしてスピノザの言ってたことが注目された。 スピノザのキーワードになるのは、人間の持つコナトゥスだ。自己保存力、自己保存要求などと訳される。人間は誰でも自分の持つ欲望を充足しながら生存を維持する。喜びや悲しみなどの感情を誰でも持つけれども、自分の欲望が充足したときに喜び、実現できないときに悲しむの普通だ。人に先んじてでも旨い食べ物にありつこうとするとか、たくさん食べたいという欲望は普通にあることだ。それは利己心でおかしいというのではなく、まずもって人間が有する自然な感情であると考えよう。この人間が本能的に持つコナトゥスを機軸に考えるべしというのがスピノザだ。p160 20世紀の共産主義運動では「何々でなければならない」というゾレン主義ばかりが強調され、人間の持つ様々な欲望を押さえつけた。その結果、かえって啓蒙的理性の専制を招いた。前衛党などというのは、中世の教会支配の焼き直しでしかなかったのである。そうしたことへの反省が、ネグりなどによるスピノザへの注目だ。p161 「前衛党などというのは、中世の教会支配の焼き直しでしかなかったのである」というのは、荒岱介本人の「前衛党」を率いてきた、過去の人生に対する自らの振り返りであり、現在(2004年現在)の心境でもある。 もともと極左過激派として三年有余刑務所にも行ってきた私は、かつては廣松をしのぐ教条的なマルクス・レーニン主義者であった。p3 その後「マルクス主義に何の魅力も感じなくなってしまった」というが、ちょっと極端な表現すぎる。この「教条主義」者たちの特徴はこの極端なところだ。マルクス主義自体は、「何の魅力」もなくなったわけではない。 スピノザは、人間がさまざまな情念や欲望に左右される存在でしかないのをみすえた上で、それでも社会が成立する根拠がどこにあるかを考えた。スピノザは『国家論』の最初から、哲学者や神学者の理念主義、ゾレン主義を批判していた。p165 スピノザは君主制、貴族制、民主主義が一番いいと言ったが、そのとき具体的な政治制度として、どんなものが可能と考えたのか。スピノザは代議制(リプレゼンテーション)を拒否した。人間が自分の権利として持つコナトゥスを誰かに譲渡してしまうところから隷属が生まれると。p168 民主主義の問題は、当ブログでも大きなテーマである。Oshoはどうやら、民主主義を由としていない向きもあるが、戦後日本に生まれた現代人として、いわゆる民主主義は疑いようのない機軸として教育されてきたところがある。この辺は、いずれ再考を要する。 アントニオ・ネグりの言っているマルチチュード(群衆)というのは、彼なりのスピノザ問題への回答だ。ネグりはイタリアのオペライスモやアウトノミアという民衆運動のイデオローグで、共産主義を脱構築しているので知られる。 ネグりは『構成的権力』や『<帝国>』で、多様なコナトゥスを持ったマルチチュードは、既存の国家の秩序を乗り越えていくといっている。各人が自分の徳や自己保存要求を求めていく場が民主主義となるのだ。コナトゥスの貫徹のうちに、既存の国家の秩序をのりこえ、あたらしい協働性がつくられていくという主張なのである。全共闘運動や新左翼運動が、既存のシステムに異議申し立てをしたが、それは、運動をつうじて新しい秩序がつくられていくことを前提としてした。しかし独善的セクト主義がばっこし、新左翼運動自身が日共型の前衛党思考にはまりこんで自滅した。 ニューレフトの初期の問題意識をネグりなどは引っ張っているのである。p169 『<帝国>』の一つのキーワードは、固体横断的なコナトゥスによる友愛なのだ。なにか抽象的な理念とか民主主義から立ち上がるのではなく、一人一人の生活世界の中で生じている具体的な問題に対して民衆が声を上げていく。出発点にあるのはコナトゥス以外ではない。しかし闘いは連帯と団結の精神を生み出す。人々が友愛により、結ばれていく。友愛は国境をこえ、正義とか公正を求める人類共通の価値をつくっていくのだ。 p171 廣松さんは、『<近代の超克>論』では次のように書いている。「われわれは、京都学派の哲学的人間学が当時におけるヨーロッパのそれよりも或る意味では水準が高いことを認めるに吝かではないし、論者たちの近代的超克論が或る部面ではヨーロッパのそれよりもアクチュアリティーをもっていたことを認める。それは、戦後におけるいかにも俗流的な『近代化論』の度し難いモダ二ズムよりも思想的には真摯であったことを覆えない」。だが戦前の近代超克論は「『近代知の地平』に包摂さえる代物であり、到底『近代の超克』を哲学的に基礎づけ得る態のものではありえない」。 p215 廣松の志をつぐ者は結局何になればよいのか。近代の超克者になるしかないのである。廣松はマルクスも近代の超克者として読み込んでおり、彼の最終的な問題意識は、20世紀西欧文明にかわる独自の東洋思想を打ち立てることにあった。そう考えれば彼の営為はすべて読みとけるのである。p5 荒の文章は、その、いかめしい団体を率いてきた元「犯罪者」というイメージからは離れて、わりと杜撰(というか突っ込みどころは多い)な論調で、私なんかは読みやすく親しみやすい。この本において、私は初めて、ネグり→マルチチュード→スピノザ→西洋哲学→現代思想→21世紀という図式が、お手軽に理解できたという感が強い。以下、荒と廣松の著書および関連書籍リストを作っておく。 荒 岱介 著書リスト 「マルクス・ラジカリズムの復興」 1993/5 「ブントの連赤問題総括」 1995/4 「ハイデガー解釈」1996/05 「行動するエチカ」1998/2 「全共闘30年」1998/10 「自由的アクティビストの冒険」1999/5 「環境革命の世紀へ」2000/1 「破天荒伝-ある叛乱世代の遍歴」2001/01 「がんばれマルチチュード」2003/4 「廣松渉理解」近代の超克者 2004/12 「新左翼とは何だったのか」2008/01 廣松渉 関連リスト 「廣松渉哲学小品集」1996/08 「戦後思想の一断面」2004/04 「廣松渉 - 近代の超克」2007/6
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