<13>からつづく
「私が愛した本」 OSHO <14>
「禅宣言」を読みすすめながら、アラン・ワッツのことがでてきたので、こちらのアラン・ワッツのことを思い出した。
私はもうひとりの人、アラン・ワッツをそのすべての著書とともに含めるつもりだ。私はこの上もなくこの人を愛してきた。私は仏陀を別な理由で愛してきた。ソロモンを別な理由で愛してきた。この人たちは光明を得ている。アラン・ワッツはそうではない。彼はアメリカ人が・・・生まれつきのアメリカ人ではないが・・・それだけが彼の希望だ。彼はアメリカへの移民だ。だが彼は、途方もなく価値のある本を書いている。『禅の道』は、もっとも重要は著書として数えられるべきだ。『This is it』は途方もない美と理解の作品だ・・・・しかも光明を得ていない人間が書いたものだ。だからこそますます評価される。
人が光明を得れば、何であれその人の言うことは美しい。それは当然すなる。だが、人がまだ光明を得ておらず、闇の中を這いながら、しかもなお小さな明かり窓を見つけることができたら、それこそ途方もないことだ。信じ難いほどにすばらしい。アラン・ワッツは酔っ払いだった。だがそれでも彼はきわめて近かった。
彼は一度、キリスト教の牧師に任命された----なんという不運だ!-----だが彼はその職を辞めた。聖職者であることを放棄する度胸を持っていた者はきわめて少ない。その地位はこの世の実に多くを与えてくれるからだ。彼はそのすべてを放棄して、ほとんどルンペンになった。だが何というルンペンだったことか! 彼はボーディダルマを、芭蕉を、あるいは臨在を思わせるルンペンだ。アラン・ワッツがいつまでも覚者にならずにとどまっていることはありえない。彼はずっと以前に死んだ。今頃彼は学校を出ようとしているに違いない・・・・・私の所に来る準備をしているに違いない。私はこういう人すべてを待っている。アラン・ワッツはそのうちのひとりだ。私はこの人を待っている。p129
Oshoは、このような表現を、いくつかのところでしている。だれだれはだれだれのもとにいくべきだったとか、かれはもうすぐやってくるだろうとか。なんとも、ほのぼのした感じがする。
11番目。そして最後だ・・・・アラン・ワッツの『本』(邦題『タブーの書』)だ。私はこれを取っておいた。アラン・ワッツは覚者ではなかったが、いつかはそうなるはずだ。彼はそれに近づいた。『本』は、途方もなく重要な書物だ。これは彼の遺言書だ。禅の祖師たち、禅の古典との、彼の体験の全てだ・・・それに彼は途方もない知性の人だ。彼は酔っ払いであった。知性プラスワンが本当に豊潤な書物を生み出した。私はこの『本』を愛してきた。だからこれを祭儀に取っておいた。
「幸いなるかな、最後に残りしもの」というイエスの言葉を覚えているかね? そうだ、この本は祝福されている。私はこれを祝福する。そして私は、このセッションのシリーズをアラン・ワッツの思い出に捧げたい。p242
この本をもってOshoの「私が愛した本」168冊のシリーズが終了した。
<15>につづく