<2>からつづく
「無水無月」 ノーウォーターノームーン<3>
Osho
「虚空の舟」も「荘子」のテキストを使っている限り、必ずしも禅ではないが、こちらの「無水無月」とて、「Talks on Zen Stories」とか、本書の帯にあるごとく「禅、十話」という紋切り型の講話を期待していると、意表を突かれる。この本も、決して禅伝統を延長したり粉飾したりして、禅の雰囲気を作っている本ではない。
ブッダが亡くなったとき、多くの体系が発生した。なぜなら、みながみな、独自の体系を作り出したからだ。彼は矛盾の人だった。体系を編み出す人ではなかった。だから数え切れぬほどの矛盾があった。そのため誰もが----哲学者たちが----仕事を始めた。そして現在、仏教には数多くの哲学がある。それらの哲学において、矛盾は除外され、首尾一貫したものが作り上げられた。だが、矛盾を除外すれば、ブッダ自身をも除外することになる---彼は、自らの矛盾に存在したからだ。彼は隙間(ギャップ)に存在した。彼は、あなたのマインドにショックを与えていた。p250
哲学とはいわないまでも、Oshoの講話を時系列に並べてみることは、それなりに価値がありそうだ。でも、それをやってみると、意外なことがわかる。そこで言われていることはほとんど何も変わっていないのだ。変化しているとすれば、彼を取り巻いている聴衆だ。一般的な公けな講演から、限られた弟子達へ、インドの人々が多かった場合もあれば、外国人たちの旅行者が増えていった時期もある。ジャーナリストのインタビューを受けたこともある。数年に渡って沈黙が保たれている時期もあった。しかし、そこに浮かんでいたものは、同じひとつの「月」だった。
一休という人には、国中に何千人もの弟子がいた。弟子たちを助けるために、ひとところから別のところへと彼は放浪した。この話は、彼の弟子の一人、蜷川についてのものだ。彼はちょうど瀬戸際にいて、ほとんど光明を得ていた。だが”ほとんど光明を得ている”のでは意味がない。戻ってくることもある。最後の最後で落ちることもある。それが起こっていないかぎり、起こってはいない。あとほんの一歩で、光明を得るまさに最後の瞬間から、戻って来ることもある。この蜷川はほとんど光明を得ていたが、まだ経典にとらわれていた。真理に到達しないかぎり、経典へのとらわれから脱するのはとてもむずかしい。p396
一休については、このあとOsho講話「一休道歌」を読もうと思っている。しかし、読もうと思っていること自体、すでに一休を見逃していることにもなりかねない。くわばらくわばら。
底がはずれるにまかせなさい! あれこれと古い桶を守ってはならない。その価値はない。自分自身を防御してはいけない、その価値はない。桶は壊れるにまかせなさい。水が流れるにまかせなさい。水の中の月が消えるにまかせなさい。そうして初めて、本物の月に目が向けられる。それはいつもそこ、空にある---けれども、手の中の空が必要だ。もっともっと空っぽでいてごらん。もっともっと自分自身を空っぽだと思ってごらん。もっともっと、あたかも自分が空っぽであるようにふるまってごらん。少しずつ、少しずつ、あなたはそれを味わうようになるだろう。そして一度、その味わいがやって来たなら、それはとても美しい。p428
ひとまず、この項、完