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地球人スピリット・ジャーナル1.0

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2009年4月1日

地球人スピリット
・ジャーナル2.0


へ引越しました。

2008.04.22
XML
カテゴリ:OSHOmmp/gnu/agarta0.0.2

<1>よりつづく

 

「一休道歌 上」 <2>
Osho  


 この講話が行われたのは、78年の4月。実はこの時、私はインドにいた。そしてプーナでこの講話を聴いていた。う~~ん、聴いていた、というよりそこに座っていた、というほうがあっている。もちろんOsho英語のヒアリングが上手にできないせいもあったが、講話を聴くことと、そこに座ることとは、また別次元なことであったように思う。

 本を読むこと、瞑想すること、プネにいくこと、サニヤシンになること、そして、その輪の中に座っていること。それぞれが、全く別の次元のことどものように思える。当時のOshoは、一ヶ月おきに英語とヒンディーで講話を繰り返していた。もちろん英語の講話のほうが圧倒的に参加者が多かったが、ヒンディー講話も、どうしてどうして欧米人にも人気があった。

 みんな、ヒンディーを理解できていたわけではないのはもちろんだが、英語だって、必ずしも、その言葉を一句一句追っかけていたわけではない。むしろ、言葉や講話は、口実でしかない。誰かと誰かが「お茶しようよ」という場合は、もちろん、おいしいお茶を飲むことは楽しいことだろうが、お茶を飲むこと自体が目的ではない。一緒にいること、お茶を媒介にして、同じ時間を共有することが「お茶する」ということの意味だろう。

 和尚の講話を聴くということは、その講話がすばらしければ、もちろんそれはすばらしいことだけど、講話そのものが目的ではない。Oshoといること、つまりは、自分自身と向き合っていること、そこに自然と目的が変容されていく。

 Oshoの講話にあって、その場で聞くということは、たとえそれが一休であったとしても、はたまた達磨や仏陀であったとしても、その場でのご馳走はあまたのブッタたちではない。

 このOshoの「一休道歌」を半分読んでみて、実にすっきりするものを感じる。ここにあるのは、栗田勇の「一休」「一休和尚大全」で展開されている世界とはまったく違う。Oshoにとって一休は、一杯のお茶だ。そのお茶は確かに最高級のお茶だ。極上だ。しかし、ここで語られているのは一休ではない。一休や一休を語るという行為を超えている。

 ここで、ひとこと素直にいっておけば、日本語の翻訳本のスタイルは、すこし一休のスタイルに力を借りすぎてはいないだろうか。原題は「TAKE IT EASY」だ。話題は一休道歌に借りている。しかし、そこで語られているのは、一休という人間の人生やパーソナリティを大きく逸脱している。いや、それを大きく超越している。

 本来の面目坊が立ち姿
     ひとめ見しより恋とこそなれ

 このような、いわゆる伝統的な一休を愛してきた人々にとっては、Oshoに関心をもつきっかけになるかもしれないし、新しい「解釈」について興味を覚えるかもしれない。しかし、それは、伝統にかたよりすぎる紹介のされかたではないだろうか。Oshoが使っているのは英語の翻訳テキストだ。上の一休の詩歌は、英語になるとこうなる。

 The figure of Real Man
       Standing there
  Just a glimpse of him,
       And We are in love.  
     p204

 どちらが優れているのか、私には分からない。しかし、インド→中国→日本と渡ってきた禅の文化は、あえて「文化」化してしまっているだけに、どうも私などは、その周辺に気を取られすぎるようだ。一休が語ろうとしていることにたどりつくまで、パッケージを空け、その飲用の仕方を工夫し、その効能書きを読み、ほかの人の体験談をかき集め、お湯の立て方を・・・、などと考えているうちに、ついには一休の世界にたどり着かない可能性もある。

 まだうまく言えないが、玉川信明の「和尚(ラジニーシ)、禅を語る」に対する私の違和感はいまだに癒えていない。つまりは、玉川本では「お茶する」時のお茶に特化してピックアップされているが、「お茶する」時のほかの要素、誰が誰とお茶するのか、お茶というメソッドで何が起こっているのか、ということが見逃されているのではないか、ということだ。

 このOshoの本は、「一休道歌」として読まれるべきではないのではないか。むしろもともとの原題「TAKE IT EASY」と改題されるべきだろう。そしてまた、もし一休が言わんとしたことを、本当に理解しようとするなら、今後は、その室町時代の時代背景や文化的系譜などに囚われず、「TAKE IT EASY」のセンスで読み直されるべきだろう。

upstair.jpg
<3>につづく






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Last updated  2008.04.25 09:21:03
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