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カテゴリ:アンソロポロジー
本書は1970年生まれ当時34歳の新進学者の、学位取得論文に多少修正したものというから、きわめてしっかりしたまじめな一冊といえる。まじめな研究だけに、ちょっと量も多く肩が凝るが、学問的に言えば、空白になっていた部分を埋めたというような功績もあるらしい。 激しくも美しい気候風土の中で独自の社会と文化を花さかせた人々が、何故によりもよって被抑圧者の救済や幸福という理想を掲げる共産主義者の支配下で巨大な悲劇に見舞われたのだろうかという衝撃とともに、高校生の筆者はチベット問題の存在を知ってしまった。そして1989年、大学入学の直前にラサでのデモ行進が武力鎮圧され、大学入学直後に64事件(第二次天安門事件)が発生し、どちらも経済発展という飴と思想統制という鞭によって収拾されたのである。筆者はこうした状況を眺めながら、チベット問題を考えることは、実は中国という国家のあり方や、政治とは何のためにあるのかという問題そのものを考えることにつながるのではないかという発想を抱くようになった。p320「あとがき」 巻末にも長く詳しい注があり、「引用文献一覧」があるが、一般図書館に収まっているような文献とは趣が違い、学術論文として発表されたものが多数含まれているようだ。もちろん日本語以外のタイトルが多くある。 正木晃の「裸形のチベット」の読書案内においても、この「清帝国とチベット問題」は、チベットと清の関係について詳細に論じている、として筆頭に紹介されている。 「チベット仏教と清帝国」、「『中華世界』と清帝国」、「新帝国の統合における反華夷思想と文化政策」、「尭舜に並び超える『皇清の大統一』」、「『自治』論の時代」、「英国認識とチベット認識のあいだ」とはこび、最終的に「結論」として、筆者は次のように切り出す。 近現代「中国」の国家統合における最大の問題点の一つは、何故儒学思想と漢字の優越性が周辺民族にも認識されたことを前提とする「中国王朝・中華帝国」と諸朝貢国の関係が20世紀の中華民国・中華人民共和国へと結びつかず、これに対して儒学と漢字を共有せず「東アジア世界」に属するとは言えないモンゴル・チベット・トルコ系ムスリム」が「漢民族とその文化を中心とする中華民族」の不可分の一体として組み入れられ、宗教的・民族的な緊張が続いてきたのかということである。そして、モンゴル・チベット・トルコ系ムスリムの存在は、従来多くの場合「中国」の「周辺」「辺境」として把握されてきたため、彼らが如何なる経緯・論理ゆえに「中国」国家に組み入れられてきたのかという問題に対する認識は一部の歴史研究者を除けば深められることはなく、そのことがなおさら「中華世界の多様性・包括性」なる言説と民族問題の尖鋭な現実との間に横たわる断層を深くしてきたことは否めない。p261 他の本で、どこに書いてあったかメモ忘れしてしまったが(たしか「アジアの試練 チベット解放は成るか」ではなかったか)、 オリンピック開催と、その後の10年後の国家の在り方について興味深いことが書いてあった。1936年にベルリン・オリンピックを開催したヒトラー・ドイツは、1945年に消滅した。1980年にモスクワ・オリンピックを開催したソビエト連邦は、1990年に共産党一党独裁を終焉せざるを得なかった。 他の二国の例と比較することが正しいかどうかは定かではないが、今回2008年に北京オリンピックを開催した中国共産党。かつての独裁国家とは背景も地域も違っているが、ものごと全体が見えてくると、「チベット問題」とはすぐれて「中国共産党問題」なのではないか、と思えてくる。今後国際社会が目を据えて注目していかなければならない問題のひとつに、このテーマが加わっていることは間違いない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.08.23 11:43:35
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