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カテゴリ:環境心理学
この一世紀余に及ぶ近代仏教研究の成果によって、南伝仏教に関する知識が飛躍的に増大したにもかかわらず、それに照して日本仏教の「奇形」を修正しようという動きはほとんど見られない。日本仏教界は、その「奇形」のうえに開き直っているとしか思えない。このままでは、奇形度は増し、氏(玄侑宗久)の言葉通り、遅かれ早かれ衰えるのは自然の流れであろう。 私もかの本を読んで「問題の本質が、地球人が未来にもつべきスピリチュアリティの探究にあるとすれば、『がんばれお寺さん』というような趣旨では、当ブログとしては、やっぱり納得できない。」と記している。この本のタイトルは「ブータン仏教から見た日本仏教」となっているが、ブータンに住んでいた今枝から見た日本仏教、という意味であろう。 当ブログは、日本に住んでいる日本人として、「日本仏教」などとひとくくりにできないことは十分に知っているし、その言われていることの全体を理解しているわけではないことも、十分に知っている。いたるところ青山ありで、どんなところにも、つまり日本仏教が全否定されるべきではないことも十分に知っている。 しかし、月の国の仏法が日の国に渡り、日の国の仏法は月の国に帰る、という法華経の預言があるとするならば、日の国の仏法は、すでにその命脈は尽きていると、言えなくもない。死にゆくものに、くたばれ!とまで罵る必要もなさそうだな、というのが当ブログの姿勢である。 ところで、私が今回の「さらに深くチベットの歴史を知るための読書案内」の正木晃にこだわっているのは何故だろうと、自分なりに不思議に思ったので、ちょっとだけメモしておく。 たとえば、すぐれたチベット仏教学者として見られている立川武蔵は、70年代において、ハーバードで講演するチョギャム・トゥルンパや、プーナ1で活動するOshoと、日本人としては初期的に接触しておきながら、その稀有な立場を十分に理解し活用していないように思う。彼に見えているのは、「人間」ひとりひとりではなく、まるで「書物」一冊一冊かのようである。ズバリ言えば、ヒューマニティに欠ける。 あるいは、「チベットの死者の書」を原典から直接翻訳した川崎信定などの、「よれよれの長い髪の毛と、風呂にはいらない身体からの匂いと、着たきりのままの汚れた衣服に辟易」しながら、「自堕落」な「ヒッピー」たちを見る目がどうしても、好きになれない。訳業としては素晴らしい才能を発揮しているのかもしれないが、この爺さんと話してみたいな、という気が起きない。あるいは他のいわゆる宗教学者といわれる一連の群れにも、いつも辟易とする。 ところが、正木晃は、「一連の麻原集団事件で一審、二審ともに死刑判決を受けた早川紀代秀の弁護をした」ということをどこかで読みかじった。現在のところ、自分でブログを読み返してみても、どこに書いてあったか忘れたが、もし、それが間違いでなかったとしたら、私は、他のチベット仏教研究者にない、なにか他の資質がこの研究者にはあるのではないか、と感じるのである。 もとより、当ブログは麻原集団に対しては徹底的に鉄鎚を加える姿勢を持っている。その教団名とやらも口にしたくない。自分のブログが汚れるのを恐れる。また観音の聖音が、なにかの挟雑物で不協和音に変調してしまうことを忌む。 しかし、そのこととは別に、ナマスさえ火傷を怖がって吹いてしまうような、臆病で変質的な研究者のあまりに多い中で、正木晃は、なにやら火中の栗を拾うような勇者に見えてくるのである。 もとより、犯罪者と弁護人は、必ずしも意を同じくするものでもなければ、救われるものと救おうとするものの立場はまったく逆である。麻原集団憎しといえど、その集団を救おうとする正木晃という人間は、いかなる人間か、という興味が、いまだ続いている。それゆえに、かれの「読書案内」にも素直に従おうとする自分がいるようなのだ。例の「読書案内」は中盤までやってきたが、これからが、いよいよ本番か。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011.11.20 20:36:13
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