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2009.02.11
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2008.10.03
テーマ:本日のお勧め(297718)
カテゴリ:スピノザ
![]() 「性と死の密教」 本書は、著者が1996年に、東京大学文学部インド哲学仏教学科で講じた「インド密教研究」の教科書として書かれた。pV この1996年というところが微妙なところ。 はたして何人の読者が、本書を最後まで通読するだけの根気をもっているか不安であるが、とにかく本書を購入した以上、騙されたと思って最後まで読んでいただきたいというのが、著者の切なる希望である。pvi いきなり「まえがき」でこのように驚かされたが、意外や意外、最後まですんなりと通読することは可能である。あれから13年が経過し、チベットやインドの密教についても一般的な常識として理解されるようになってきたのだろうか。すくなくとも、当ブログではすこしはその世界観や語彙にも慣れてきている、とは言える。 「インド密教研究」と銘打たれているだけに、チベット密教からはやや離れる部分もあるが、全くのつながりが切れてしまうわけではない。むしろ、インドや中国とのつながりの中でチベットをながめようとするなら、インド密教からの視点もより明確にしていく必要がある。 密教は、万人に開かれた教えではなく、資格を得た者以外には示してはならない性格の宗教であった。そして、この宗教に参与する資格を与える入門儀式こそ、灌頂に他ならない。p117 当ブログは、特段に「密教」に関心あるわけではなく、その「資格」を得ようと奮闘しているわけでもない。しかし、一般図書館の開架蔵書として「密教」が公開されている限り、許される範囲で、密教の秘密を覗いてしまおうという野次馬根性はある。 1995年のチベット動乱以後、チベット密教が伝播して流行するようになった欧米では、この「光明」がClear lightと訳されるようになったので、死の瞬間には、誰でも実際に「輝く光」が見えると説く者がある。しかし、「行合集灯」の表現を借りれば、「光明」は<智恵の眼で見る>ものであり、世間一般に存在するような光ではない。p190 この部分を指摘する人は多い。しかし、異なる文化間における「理解」の始まりは、まずは互いの「誤解」から始まるのだから、次第次第に真の理解に向けて歩み続ければいい。 ある活仏(カギュー派)の話によれば、生起次第から究竟次第に進むのが常道であるが、チベット仏教の欧米えの伝播においては、諸般の事情により生起次第を省略したり著しく簡略化したりする便法が行われたという。 その理由は、生まれながらの仏教徒であるチベット人とは異なり、キリスト教が文化の基盤をなす欧米への布教においては、自分たちの仏教の実践が明白な効果をもたらすことを、まず示さなければならない。そのためには究竟次第系のヨーガが最も効果的であり、生起次第を省略することに批判的なゲルク派出身のダライラマ14世でさえ、欧米布教においては、やむを得ない便法として黙認しているとのことであった。p245 実際にチベット密教の文献に首を突っ込んでみれば、あまりに煩雑なシンボルや言語が入り乱れ、もしもチベット密教が未来の地球人スピリットへと成長していくとするなら、どこかで何らかの方法でシンプル化されなくてはならないだろう。「著しく簡略化」されすぎるのもどうかと思うが、適応できる「便法」があるなら、適時に適格に対応されることを望む。
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2008.10.03 21:50:10
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カテゴリ:スピノザ
「ニンマ派をよく知るために」 <総括>
![]() 現在のチベット仏教ブームは、中沢新一氏がニンマ派の僧侶ケツン・サンポ師のもとで実際に修行し、そのときの体験を出版(「チベットのモーツァルト」したことに始まったといってもいいくらいである。「改稿版 虹の階梯 チベット密教の瞑想修行」は、ゾクチェン(大究竟)の修行に関するニンマ派の古典的文献で、もはや記念碑的著作となっている。ゾクチェンについては、ナムカイ・ノルブ師による「ゾクチェンの教え」や「虹と水晶」が出版され、その全貌が明らかにされようとしている。ケツン・サンポ師の「知恵の遥かな頂き」を読むと、チベットにおける「ガクパ(密教行者)」の相貌が浮かんでくる。「チベットの死者の書」(カルマリンパ)が、世界的なチベット密教ブームの発火剤となったことは、今さら指摘するまでもない。「裸形のチベット」 正木晃p275 行きつ戻りつばかりしていても、なかなか前に進まないので、この辺ですこしづつ区切りをつけておく。別に意図したわけではなかったのだが、かの深読みリストをランダムに読みすすめた結果、ニンマ派についてのとっかかりがいちばん早く、一応いちばん最初に再読が終わったので、とりあえずの「ソーカツ」をしておく。 「チベットのモーツァルト」は、現在までの中沢の仕事の経緯を見ると、すでにその種が播かれていたという点では納得の一冊だが、一読者の私にとっては、やはり洒脱で能弁な中沢節には、ちょっと警戒を怠れないな、という危険な香りを感じる一冊。正木はこの一冊をもって「現在のチベット仏教ブーム」と言っているが、この本は、当時、雑誌等に断片的に投稿されたものが合本となっていることを考える時、中沢の一連の著作活動、と読みなおしてもいいのだろう。 その活動の中に含まれるのが「虹の階梯」だが、1993年に「改稿」されたものが「完全」であるのかどうか、私は懐疑的だ。むしろ「初版」1981年のほうが、記念碑としては説得力がある。「改稿」版は、私の警戒モードをさらに高める結果となった。この本が、その直後の麻原集団事件とともに、社会的濁流にのみこまれたのは、不運だったのか、幸運だったのか、もうすこし時間が経過しなければ、最終的な結論はでないだろう。 「ゾクチェンの教え」は、最初の手っ取り早くリストを作ろうとする段階では、よく意味がとれなかったが、再読してみれば、なるほど、これは面白いと、納得の一冊。魑魅魍魎に見えるチベット密教の世界だが、このような形でゾクチェンの境地が提示されていれば、禅の悟りの世界との共通項も見つけることもできるし、中国禅の頓悟と底通する部分も発見して、当ブログにおける地球人スピリットの、全体をつなぐゲートウェイの役割を果たしてくれそうだ。 「虹と水晶」は、ナムカイ・ノルブの世界を補完するうえでとても役立った。ゾクチェンという言葉がより身近に感じることができた。しかし、わかりやすいのはよいのだが、言葉として分かったつもりになっても、実際には体得していないことのほうが圧倒的に多いので、こういう「わかりやすい」本から入っていくのは、良いのか悪いのか、今は判断不能。ただ、あまりに難解な本から取り組むより、親しみを持てる部分から始めることは、私のような門外漢や初心者には、当然のことと思える。 ラマ・ケツン・サンポの「知恵の遥かな頂き」は、幸か不幸か、中沢とのカップリングで取り上げられることの多いケツン・サンポ師の自伝的一冊であり、その稀有な人生の特異性が際立っている。このリストの中では、1959年のチベット動乱で、チベット国外に逃れた二人のニンマ派のラマが紹介されているわけだが、イタリアに逃れたナムカイ・ノルブ師の、どちらかというと才際立った雰囲気に比べ、日本に派遣されたケツン・サンポ師の、飾らない人柄が一段と親しみを持たせてくれる。 「チベットの死者の書」については、他にさまざまな異本があり、いずれ機会をあらため読み比べてみようと思うが、この本もまたニンマ派に属する一冊であったということを考える時、他のカギュー派やゲルク派に対する位置づけが次第に解き明かされてきたように思う。チベット密教の古派というべきか、基本というべきか、保守というべきか、その実直な風格が自然と染み出てくるような部分が、ニンマ派的、というべきなのであろうか。 「西蔵仏教宗義研究」は、日本におけるチベット密教研究の第一級の資料とされるもので、中沢の師であり、ダライ・ラマによって1961年に日本に派遣されたケツン・サンポ師などの受け入れ先になった東洋文庫での研究がベースになっているらしいことを考える時、二重三重に意味深い。このニンマ派の章も必ずしも門外漢には扱いやすいものではないが、チベット密教に対するしっかりとした理解のベースを提示してくれているようだ。 このニンマ派の他には、カギュー派とゲルク派を再読してみようと思うが、それもこれも、結局は、一連の「ツォンカパの著作」の再読へ向けての準備であると考えている。好みでいえば、私はツォンカパはあまり好きになれそうにないのだが、チベット密教全体を知る意味では、ツォンカパは避けて前に進めないポイントのようだ。それと、ツォンカパを軽く再読し得たら、ナーガルジュナとアティーシャ関連の本にも一度目を通したいと思っている。
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2008.10.03 17:04:53
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カテゴリ:スピノザ
ナムカイ・ノルブには、「虹と水晶」1992/02 や「ゾクチェンの教え」1994/03 やある。チベット密教の至高とされ、ニンマ派に伝承されてきたと言われるゾクチェンの境地はこの著者あってこそ、読む者に伝わってくる部分がある。いきおい同じ著者の本であるこの「夢の修行」にも期待したが、編集者たちによる注釈が多すぎて、せっかくの神秘的な部分が台無しになっているようなイメージがある。 たしかに著者の他書を読むと、夢について言及した部分が多くあり、その人生の展開には夢からえたメッセージや解読が大きく影響している形跡がある。その取扱い方には興味深いものがあるが、結局は夢は夢なのであるという納得も必要である。 禅定を睡眠と融合するには、獅子の睡眠の姿勢によってプラーナをゆったりと自由に放置し、目はつぶらないまま、自分の心臓の内部に、清明に輝く五色の光の玉を観想し、意識を集中したままで眠る。外の顕現がしだいに消え去っていく時、睡眠と夢の境界に、無分別にして透明に輝く認識がある。それを光明として自覚し、そのままの状態で、心を沈みこませることなく眠ることによって、睡眠が光明として生じる。p66 どんなことでも瞑想にすることができるのであれば、夢を瞑想にすることも可能であろうし、そこを避けて通れないと悟った魂には、夢の修行も必要であろうが、あえて、この部分にこだわる必要は私にはない。もちろん、よく夢は見る。蒲団にはいるということは夢の世界にはいるのと同じ、というくらいによく夢は見る。金縛りにあうこともあるし、ある時などは、ちゃんと証明できた予知夢をみた体験もある。しかし、現在の私は、夢は夢、という以外に、深追いはしないでいる。 わたしたちは、禅とゾクチェンが目指している悟りの境地が、深く重なりあいながら、しかも完全には一致しないこと、ゾクチェンの悟りの境地は、禅的な空の体験を包含しながら、さらにダイナミックな光の運動におおきく開かれていることを、理解することができる。両者は、日常生活を尊重すること、「無為」「無作為」の強調をはじめとして、とても深い共通性をもっている。けれども、ことなる哲学を背景にしているのである。p190「夢見の力」訳者解説 現在の私はむしろこちらの、訳者の解説であるゾクチェンと禅との比較などのほうに関心を持った。
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2008.10.03 09:22:30
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