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カテゴリ:mandala-integral
<2>よりつづく 共時性 一般的にこのシンクロニシティーと言い慣わされており、なにごとかが起きるとき、多くの人が感じていることである。当ブログにおいても、なにごとかのシンクロニシティが起きてくるとすれば、このユングの「黄金の華の秘密」とOshoの「黄金の華の秘密」が共時性をもって動き出すことだろう。 瞑想者は仏をイメージするというより、仏と合一するのだ。ある瞬間、彼らは仏に変身する。つまり、仏の元型的本質が彼らに伝わるのである。仏と一体化した時、いわゆる「わたしは仏陀なのだ」という確信が生まれる。観想の核心は、この仏との合一にある。それは、瞑想者の自我すなわち日常的な意識が捨て去られ、仏の高次の意識と入れ替わるというダイナミックなプロセスである。ユングの言葉を用いれば、個人の自我を犠牲として自我が生まれるプロセスである。p105 この合一という感覚は、チベット密教を通じて一貫して感じる核心である。それゆえの、さまざまなシンボルであり、イメージングであり、帰依である、と感じる。 タントラの成就法(霊的修行)においては、瞑想という心の活動には、おのおの口と身にあたる、真言(マントラ)と印(ムドラー)が用いられる。真言は、聖なる言葉であり、耳で聴く象徴であるが、具体的な意味があるわけではない。しかし、音楽や詩と同じように、思考や通常の言葉にはない、奥深い感情と意識の状態を呼び起こす力を持っている。潅頂を受けた者にとっては、真言はすみやかにかつ直接的に彼らの内なる力に語りかけ、それらを呼び起こす効験がある。そうでない者には、謎めいたものである。十分な用意と適切な心の状態ぬきに、単に真言を唱えるだけでは、役に立たない。真言の響きは、物理的な音ということにとどまらない、非常にスピリチュアルなものだからである。p112 Oshoにおけるマハムドラー瞑想はラティハンである。ゆったりした、いわゆるフリーダンスだ。マントラだってフリーマントラだ。 儀礼と儀式は、タントラ修行において、重要な役割を果たしている。五体投地、香や花の捧げること、経文を唱えること、供養(プジャ・崇拝をしめす儀礼)、潅頂儀礼、これらすべては別の形での瞑想とみなされるべきであり、その象徴的意味を理解しなければならない。これらの儀礼が十分に効果を持つためには、畏敬の念を失わず、正しい心の状態を保ったうえで、行う必要がある。p112 ひとつひとついちいち言っていたのでは切りがないが、これらのことについては、Oshoのもとにあっては、ことごとくセットオフされていると思う。そして、肝腎要のところだけは、本質的にヒットすることになっている。マンダラに対するチベット密教とOshoの違いに、それを象徴的にみることができる。 解脱は、書物や抽象的な知識によってではなく、経験を通じてのみ、達成さえるものであるから、導師(グル)あるいは精神的な師は非常に重要である。別な人間の助けや導きがあってこそ、ひとの意識は目覚め、真の向上が得られるのである。しかし、この別な人間は、道に長じた、資格を持った教師である必要がある。彼の指導、彼の知識、彼の明晰な頭脳、彼の知慧と慈悲は、ただ教師であるだけでなく、悟りの状態を示す、生きた手本でなくてはならない。p113 グルや導師、マスター、という概念については、もうすこし、ゆっくり考えるチャンスもあるだろう。しかし、もっとも重要かつ最奥のこの部分についても、Oshoは本質をズバリと射抜いている、と私は思う。 現代になって基本的に西洋人向けに書かれた注解で、チョギャム・トゥルンパ師はこの書を「チベットの生誕の書」と呼んでいる。そこで生と死がこの世で常に繰り返される根本原理であるという意見を述べている。「バルド(bardo)」という言葉の意味は、「の中間に」を意味する「バル(bar)」と、「島」または「目印」を意味する「ド(do)」からきている。したがってバルドは、「二つの物の間に立っている一種の境界標」であり、中間の状態(中有)、移行の期間を指して言っている。p132 チョギャム・トゥルンパについては、当ブログでも、もうちょっと追いかけたいと思っている。Oshoにかかれば、バルドも、より本質的な部分が、より現代的な形で瞑想化されている。 マンダラ たしかにそれは間違いない。その想像力と緻密性は他をはるかに凌駕する。高度に積み上げられたシンボリズムとイメージ力は、チベットという地理や、その4000メートルを超すという高地であればこそ集中されたものであろう。しかし、現代においては、そのことさえも両刃の刃となっている。 仏教のある派の見方では意識は六種ある。眼識、耳識、鼻識、舌識、身識そして意識である。それから自我の思い違いの原因となる、苦しみ悩む意識がある。そして意識すべての底にあるのがアラヤ識(蔵識)である。それはあらゆる意識の源泉にして宇宙的心であって、その中に無始の時以来の原初形態とすべての経験とがたくわえらえているのである。その潜在的内容は、ふさわしい条件と連想によって刺激されれば他の意識にのぼってくるのである。 当ブログにおける主テーマは、次第次第に、この集合的無意識、あるいはアラヤ識に移行しつつある。 霊的変容 問題の核心はかなり絞られてきている。 しかしながら、大乗仏教とユングの間には違いがある。ユングの考えでは無意識は決して完全に意識されることはなく、個性化のプロセスは決して完成されることはない。一方仏教徒にとって知りえないものすべてを知り、完全に悟ることは可能なのである。ここで思い出さなければならないのは、その全著作においてユングは経験的に確証されうる心理的体験を考察しているのであって、形而上学的カテゴリーを扱っているのではないということである。p171 ということは、ユングは生きたブッダに出会うことはなかった、ということか。 タントラ仏教を理解するのは大変むずかしい。それについて書くのはもっとむずかしい。知識ではなく個人的体験に基盤を持つものだからである。同じことはユングの仕事についても言える。それゆえこの種の本が含む不十分さ、脱落、避けられない歪曲については痛いほど承知している。p196 生きたブッタに出会うことは至難のできごとである。ましてや生きたマスターにあうことは、奇跡と言っていい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.11.27 20:38:17
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