|
全て
| 目次
| 2nd ライフ
| ネットワーク社会と未来
| マルチチュード
| アガルタ
| シンギュラリタリアン
| 地球人スピリット
| マーケットプレイス
| ブログ・ジャーナリズム
| OSHOmmp/gnu/agarta0.0.2
| mandala-integral
| レムリア
| スピノザ
| ブッダ達の心理学1.0
| シンギュラリティ
| agarta-david
| アンソロポロジー
| バック・ヤード
| チェロキー
| 環境心理学
| osho@spiritual.earth
| スピリット・オブ・エクスタシー
| 22番目のカテゴリー
カテゴリ:agarta-david
中観と喩伽行派は、ほかのさまざまなポイントについても、異なる考え方をとっている。たとえば、中観の哲学のなかでは、人間は、六識(眼・耳・鼻・舌・身・意)から構成されるものとして考えているのに対し、喩伽行派では、密教とも深くつながりあいながら、八識(六識に末那識と阿頼耶識を加える)からなると考えられているのである。 ナムカイ・ノルブについては、「ゾクチェンの教え」、「虹と水晶」、「夢の修行 チベット密教の叡智」、などを読んで来た。最初は、マハムドラーとゾクチェンの違いには拘泥せずに、同じことのヒンドゥー的理解とポン教的理解という程度に進んできたが、ここにきて、その言葉から湧いてくるイメージにかなりの違いがでてきた。 自分のマハムドラーに対する理解は、やはり、どうしても屁理屈っぽいところが残っている。ところがゾクチェンはもっともっとプリミティブな自然体という状態が強い。とくにナムカイ・ノルブ的理解に従って行けば、かぎりなく、ありのままの子供のような状態に戻るようだ。Be Here Now という言葉ですら、もう手垢の付いた言葉になってしまった。ナムカイ・ノルブ的ゾクチェンにおいては、究極の境涯という言葉すら必要なさそうだ。 心の狭い何人かの学者たち---かつてのカギュ派、そして最近ではゲルク派---は、ゾクチェンを否定するような本をたくさん書いている。そういった本が、もし仮に翻訳されることがあれば、いつか目にすることもあるだろう。彼らの議論を読んでいくと、「ゾクチェンにも何かおかしなところがあるんだ」と考えることにもなるだろう。p72 現在、「ダライ・ラマ ゾクチェン入門」を併読しているが、あちらはゾクチェンというキーワードとして、仏教的理解やチベット民族が現在置かれている状況を西洋の人々に向って話しているのであって、かならずしもゾクチェンそのものに的を絞ったものではない。シャルザ・タシ・ギャルツェンのポン教的「智恵のエッセンス」などなど、いろいろあるのだが、これらの比較検討などという罠にはまっていけば、ますますナルカイ・ノルブ的ゾクチェンからますます離れてしまう。 ゾクチェンにおいては、輪廻、すなわち心における思考の運動、相対世界に生じてくるすべての出来事は、光明の一部だと考えられている。したがって、本尊やマンダラが、そこにあらわれてくる必要など、何もないのである。カルマによる顕現は、ふつうは、苦しみをもたらすものと考えられているけれども、それもまた、光明の一部だと考えられているのである。p80 この本、「世界各地でおこなった講義からなって」いて、「その厖大な講義の一部を、日本の読者のために編集したもの」であるかぎり、部分的に抜き書きされたものであろうし、当ブログはそこからさらにいピックアップしているわけだから、もともとのナムカイ・ノルブの真意を測りかねるところもある。だが、単体でみるかぎり、この言葉はこのままストレートに受け取ることができる。 そこから生まれるヴィジョンにせよ、観念にせよ、すべての心の産物である。これを、純粋な世俗と呼ぶ。最後に、一切は統一され、観念を超えた境地に入っていく。これが、究極のマハームドラーである。p83 この辺は、ゾクチェン=ナムカイ・ノルブからの、マハームドラーへのカウンター・ジャブである。 ゾクチェンにおいては、自己に責任をもつことを学ぶ必要がある。誰かがやってきて、指導してくれるというわけにはいかない。自分で自分を導くのだ。特定の戒律や規則を守る必要はない。自分を支配するのだ。p108 いよいよ、その真価を発揮。 いずれにせよ、結局のところ、ゾクチェンの修行をするなら、自己に責任をとる必要がある。まだできなければ、まず学ぶ。それから悟るのだ。これは、とても大切なポイントだ。自覚を保ち、責任をもって行為する必要がある。状況は多様だ。そのなかで自覚を保っていかなければ、決して責任をもつことはできないだろう。これこそが、すべての修行者の義務である。p112 いかにも単身パックで分かりやすい道ではある。 病気で苦しんでいるなら、熟達した医師に助言を乞う必要がある。危険な道を進んでいくときには、案内人が必要だ。盗賊、敵、動物が跋扈する危険な道を進んでいるのなら、旅の途中守ってくれる存在を探す。商人が島を目指して航海するときには、船長を頼りにする。川を渡るには、船頭の言うことにしたがう。 当ブログでは、自らの足で旅することをよしとしながらも、ひとりマスターとして頼む存在を置いている。 場合によっては、戒律を受けるのもいい。自己を制御する能力が欠けているならば、戒律を受ける必要がある。小乗は、特に、感情や煩悩を統合する能力がまだ充分に発達していない個人を助けることを目指している。そういう人は、戒律を受けることによって、煩悩や障害や問題を制御し、それによって、悪しきカルマを作りだすことを避けることができるようになる。 もって瞑すべし。 仏教のほんとうの意味は何か、理解すべく、つねに努力する必要がある。
Last updated
2008.11.28 09:36:57
コメント(0) | コメントを書く
[agarta-david] カテゴリの最新記事
|
|