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カテゴリ:mandala-integral
「自我の行方」岸田秀コレクション 岸田秀と八木誠一の対談集であり、話題に、その日行われていた早稲田実業と横浜高校の甲子園での決勝戦がでてくるという、実にレトロな時代感覚である。この1980年の両校のヒーローは荒木大輔と愛甲猛である。もうすでにこの両選手も、話題になることはほとんどなくなってしまった。(って野球話はあまり得意ではないが・・・・) 岸田秀については「ものぐさ精神分析」を読んだことがあり、その本も納戸のどこかに転がっているはずだ。八木誠一という人はまったく知らないが、関東学院大学神学部で岡野守也を教えたということだから、キリスト教に縁の深い人ということになろうか。当時岡野は春秋社の編集者であり、岡野が取り持ったことによってこの対談が成立したようだ。岡野という人は、このところ当ブログに何回もでてくる常連さんとなっている。そのうちまとめて読んでみようと思う。 さて、このレトロな本も、時代背景やら言葉の使い方やら、なんやかんやと今読みこむにはタイミングを逸したものになってしまっているが、この1930年代初めに生まれたお二人の反逆のスピリットはなかなかなものだと敬服せざるを得ないところが多い。 例えば、「ひるがえって、幼児のようにならなければ、神の国にはいることができない」などいうイエスの言葉がありますね。仏教の場合でも、悟りというのは要するに赤ん坊の状態にもどることだなんていうような言い方があるんですね。それはやはり、ひとつの重要な要素としてあるんですね。あるけれども、赤ん坊状態そのままの再現じゃ、文化的状況に適応できないから、ある仕方で、再現している。(八木)p59 親鸞の場合だって、「自然法爾(じねんほうに)」といいますでしょう。法というのは、個人を超えたほとけの知慧といのちのことでしょうが、人間のほとけのいのちの営みなのであって、だからそこが分かれば悪事を働くわけがない、人間の営みはほとけのいのちなの営みとしておのずから成り立つものだから、と言うんですね。全く同様に、道元も「諸悪莫作(しょあくまくさ)」と言う。ほとけのいのちの営みとしての人間存在は、悪をしないものだ、というんです。悪をするべからず、というのではなく(八木)p128 ついでに申しますと、これはあらためて対談の主題にしたいことなんですが、殺しと性は関係があると思うです。(八木)p130 対談だから、ほぼ同じ分量の発言があるのだが、今回はやたらと八木誠一の発言の部分だけが気になった。岸田秀のほうは、何をなんと発言しようが、こちらに免疫ができていて、特段に珍しくなかった。(笑) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.12.13 23:23:33
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