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カテゴリ:osho@spiritual.earth
<18>からつづく
10番目。私はこの本を覚えていたのだが、あえて言及しなかった。というのは、これがグルジェフを裏切った彼の弟子、P・D・ウスペンスキーによって書かれたものだからだ。この裏切りがあるので、私はこの本を入れたくなかった。だがこの本は、彼がその師を裏切る前に書いたものだから、私は最終的にこれを入れることに決めた。その本の名前は「奇跡を求めて」だ。これは途方もなくすばらしい本だ。これが弟子に過ぎなかった男、自分自身ではまだ知るに到っていなかった男によって書かれたものであるだけに、なお素晴らしい。彼は弟子であっただけでなく、後にはユダとなった男、グルジェフを裏切った男だ。これは不思議なことだが、世界は不思議なことでいっぱいだ。 ウスペンスキーの本は、グルジェフ自身の本よりもはるかに明確にグルジェフを表している。おそらく存在のある状態においては、グルジェフはウスペンスキーを乗っ取って、彼を媒体として使ったものにちがいない。ちょうど私がデヴァギートを私の媒体として使っているようにだ。今の今、彼はノートを取っている、が私はこの半分閉じた目ですべてを見ている。たとえ目を閉じていても、私は見ることができる。私はまさに見ている者、丘の上の見物人だ。私には見物する以外に仕事はない。 OSHO p23
2番目はP・D・ウスペンスキーの「テルティウム・オルガヌム」だ。彼がこれを、まだグルジェフのことを聞いたこともないうちに書いたとは奇跡だ。彼はこれを、自分が何を書いているのかを知らないで書いた。後にグルジェフに会って、初めて彼はそれを理解した。ゲオルギー・グルジェフに対する彼の最初の言葉は、「あなたの目を覗いてみて、私は『テルティウム・オルガヌム』がわかりました。あれを書いたのは私ですが、今になってみれば、あれは自分でも気付かなかった未知の力が、私を通して書かせたものだと言えます」というものだった。 おそらく、彼を通じてそれを書いたのは、あのならず者のグルジェフだったのだろう。あるいはもしかしたら、それは、スーフィーたちが「究極のならず者」と呼ぶ他の誰かが、「テルティウム・オルガヌム」のような奇跡を行なってきた他の誰かがやったことかもしれない。 そのタイトルの意味は、「思考の第三聖典」だ。スーフィーたちは、究極の力に対してある名前を与えている。それは人ではなく、ひとつの臨在にすぎない。私はその臨在をまさに今、ここ・・・・この今の瞬間に感じることができる。彼らはそれを・・・・ある名前で呼ぶ。どんなものにも名前がなければならないからだ。だが私はそれを言うまい。この美しさの、この壮麗の臨在の下(もと)で・・・・この横溢・・・・この高揚の・・・・この歓喜の・・・・。 私は、ウスペンスキーが「テルティウム・オルガヌム」を、この世のあらゆる言語で書かれた本の中で最も偉大な一冊を書きえたことは奇跡だと言った。実際次のように言われている。しかもまさにその通りだ。いいかね。まさにその通りだということを強調して、もう一度言っておこう。つまり、偉大な本は三冊しかない。一冊目は、アリストテレスによって書かれた「オルガヌム」であり、二番めはベーコンによって書かれた「セカンド・オルガヌム」であり、三番目はP・D・ウスペンスキーの「テルティウム・オルガヌム」であると。「テルティウム」というのは「第三の」という意味だ。しかもウスペンスキーは実にいたずらっぽく---聖者にしかこのようないたずらはできない---どんなエゴもなく、素朴に、謙虚に、こう言ってこの本を紹介している。すなわち、「第一の書は、第三の書より以前は存在していなかった。この第三の書は、第一の書が存在する以前から存在していた」と。 どうやらウスペンスキーは「テルティウム・オルガヌム」で消耗し尽くしたようだ。そこに全面的に、完全に自分を使いきってしまった。というのも、彼は二度とふたたび同じ高みには達しえなかったからだ。「奇跡を求めて」の中でグルジェフについて書いているときでさえ、同じ高みに達することはなかった。 グルジェフを裏切ったとき、彼は最後に「テルティウム」以上のものを創造しようと試みた。最後の努力として、彼は「第四の道」を書いた。が、まったくの失敗だった。本はいい本だ。どこかの大学のカリキュラムに使うなら立派なものだ。私には私一流のけなし方があるのが分かるかね・・・。 「第四の道」は、大学の講座で正規のカリキュラムの一部にはなりうるだろうが、それ以上のものではない。彼は最善を尽くそうとしてはいるのだが、あれはウスペンスキーが書いた最悪の本だ。それが彼の最後の本だった。 それがあらゆる偉大なものにおける難しさだ。やろうとすれば失敗する。それは努力なしにくるか、あるいはまったく来ないかだ。「テルティウム・オルガヌム」では、それは彼を訪れたが、彼はそれに気づくことすらなかった。「テルティウム」の中の言葉はあまりにも強力で、その著者が光明を得ていないとは、まだ導師を探し、真実を求めていたなどとは信じられない。 私は貧乏学生で、一日中新聞記者として働いていた。あれは人にできる最悪の職業だ。だが当時、私にできることはそれしかなかった。あまりに貧乏で、私は夜学に通わなくてはならなかった。それで昼は一日新聞記者として働き、夜、大学に通った。ある意味では、私の名前は夜に属している。ラジニーシとは月のことだ。ラジニは夜を意味し、イーシは神を意味する。つまり、「夜の神」だ。 だから人はよく笑ってこう言ったものだ。「不思議だね。君は昼は一日働いて、夜勉強しに行くんだからな。自分の名前通りにするつもりか?」 今なら私は、彼らに答えることができる。「YES」---これを大文字で書いておきなさい---YES。私は生涯それを実現しようとしてきた。満月になること以上に美しいことが他にあるだろうか? そういうわけで、当時私は貧乏学生として昼は一日中働いていた・・・・だが私は狂った人間だ。金があろうがなかろうがそんなことはどうでもいい。 私は人から借りた本を読むのは、どうしてもいやだった。実際、私は図書館の本も借りるのもいやだ。図書館の本とは売春婦のようなものだ。私は他人がつけた印とかアンダーラインを見るのはいやだ。私はいつでも新鮮さを愛する。処女雪のような新鮮さを。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.01.07 15:53:43
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