地球人スピリット・ジャーナル1.0

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2009年4月1日

地球人スピリット
・ジャーナル2.0


へ引越しました。

2008.12.19
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カテゴリ:mandala-integral

<4>よりつづく

「エスリンとアメリカの覚醒」 <5> 人間の可能性への挑戦
ウォルター・トルーエット・アンダーソン /伊東博 1998/09 誠信書房 単行本 336p

 アラン・ワッツその2

 私は説教師でもないし宗教改革者でもない(とワッツは1960年に書いている)。というのは、私は浴槽で歌を歌ったり、海で水しぶきをあげるのと同じように物事を見る、そういう見方について話したり書いたりするのが好きなのだ。布教しているわけでもないし、改宗させようという意図もないが、ただこうした意識状態が普遍的になれば世界を動かす真面目な仕事と見なされるだろうというのぼせあがったナンセンスは、笑い飛ばしてしまう。私たちが理解しなければならないことは、そのためにお互いに殺し合ったり縛り合ったりしている高い理想なるものが、自然の驚異という意味ばかりではなく単なる実存という神秘的な事実においても空虚で抽象的なものであり、私たちを取り巻いている奇跡の代用品にすぎないということなのだ。こうした覚醒が人間からエネルギーや社会的関心を奪ってしまうなどとは一度だって考えたことはない。それどころかその喜びの半分でも、他人と分かち合わなければならない。そして精神も物質も分離できないものだから、そのことは洞察するばかりではなく、人生と物質を分かち合うということである。しかしそんなことが可能かどうかは、一にかかって人間を、それが可能な人間に変容することができるというビジョンがあるかどうかにかかっている。熱心に勧告したり、罪悪感に訴えたりしてできることではない。それはどんなにしつこくやっても、創造的なものにはならない。p53

 彼は説教師として世に出ようとしたのではないが、どんな説教しも羨むような話術の才能をもっていた。歯切れよく、流暢な話し方をし、メモの準備もなしに完璧に構成された文章で、何時間でも話し続けることができた。声もすばらしく、自分でもそれを知っていてうまく利用した。自分の選んだ仕事、哲学のエンタテイメントにおいてすぐれた才能があり、洗練されたプロというべきひとであった。1958年にチューリッヒのカール・ユングを訪れユング研究所で講演をした。そこで彼は、ユングが形式的な講演はやらないで、週末ほどの期間継続するセミナーをやっていることに強い印象を受けた。こうしたセミナーでは、インストラクターと受講者が両方とも勉強し、質問と討論の時間もたっぷりあった。カリフォルニアに帰ってワッツは(もう「アジア研究所」はやめていた)、このモデルに基づいて自分のセミナーをやり始めた。p54

 ワッツはビッグサーのあたりにも多くの友人をもっていた。そこはサンフランシスコへの道を初めてドライヴしたときから気に入ったところだったし、また何度もそこでセミナーを開いていた。前例はすでにあったのだ。ワッツがスレート温泉で初めてセミナーを開いたとき、古い石の暖炉の前に座り、ときにはビールを飲みながら、25人ほどの人と「こうしたもの」について話していたとき、それは決して未知への飛躍ではなくて、ずっと以前からビックサーで行われていたことの続きにすぎなかったのである。p54

 悟りという禅の概念が論じられ、アラン・ワッツの即席の精神の目覚めが説かれ、マズローの至高体験が探究され、あるいはウィンクラーがその著書の最後に書いたような内面の開拓に向けての呼びかけがなされるならば、それを聞いた人は、それは結構だ、それではそういう状態にさせてくれと言うにきまっているのだ。おそかれ早かれ誰かが非理性的なことを始めるのは必至だった。p65

 説得調のスタンフォード大学ウィリス・ハーマン教授は、1962年10月のワークショップで、人間精神の次元は現代心理学が考えているよりもはるかに偉大なものだと叫んだ。アラン・ワッツは、純粋な宗教体験のまわりには基本的に破壊的なものがまつわりついていると、常に警告していた。p65

  こうした宗教的体験のなかにはこんな意味も含まれている。(アラン・ワッツは述べる)私たちが世界というものを正常に知覚し評価するならば、それは主観的なものだが一つの集団悪夢なのだ。実際の現実についてのごく普通の感覚---たとえば月曜日の朝起きたときに見る世界の感覚---は、社会化された条件づけと抑圧の一つの構造なのだ。つまりそれは選択された不注意の体系なのであり、それによって私たちは、現代文明生活のゲームとリールと一致しないような、自然のなかの諸局面・諸関係を除外してしまうように教えこまれているのだ。p66

 もしサイケデリックの代弁者としてティモシー・リアリーのライバルがいたとしたら(ハクスリー自身は除いて)アラン・ワッツであった。ワッツはさまざまな薬物についての自分の経験を、1962年に出版した「楽しい宇宙論」という本に書いた。ワッツの述べ方はむしろ控え目だった。薬物による啓示の結果としてすぐにも文化革命が起こるといった予言もしなかったし、(リアリーのように)化学薬品によって悟りが得られるとも述べなかった。彼はただサイケデリックスは他の滴当な構造のなかで用いられるならば---、ほんとうの意識変革をもたらすだろうと示唆しているだけである。ワッツとリアリーは親友であり、お互いに仲間だと思っていたが、その個人的スタイルは違っていた。リアリーは人びとの気持ちを扇動するのが好きだったが、ワッツは学問的な(きわめて知的な)やり方で物事を議論するのが好きだった。p71

 エスリンのもう二つの要素、ゲシュタルト療法とボディワークは1963年にビッグサーに漂着した。(中略)何人かの参加者は、ゲシュタルト療法についてオルダス・ハクスレーやアラン・ワッツから聞いていた。東洋宗教における気づきに近いと気いていたが、それを実際に経験した人は少なかった。ハクスリーやワッツでさえも経験してはいなかった。p81

 マーフィーはエスリンの顧問団にサンフランシスコ支部について相談した。みんなその実現をすすめてくれた。(中略)(パイクは)エスリンでアラン・ワッツやジェームズ・ブーゲンタールと一緒にセミナーをやったこともある。(中略)アラン・ワッツとはとくに仲が良かったが、その高遠な神学を尊敬していた。p147

 その夜アブラハム・マズローが、第一ユニタリアン教会で「人間性の限界の拡大」と題する講演をした。次の日の夜はアラン・ワッツが「超教派的聖餐」と自称するミサをやった。それは華麗なもので、地味なグレース寺院でやらなかったのは当然で、鳴りもの入りの宗教的バカ騒ぎといった夜だった。(中略)そしてワッツは「世界によろこびを」という説教をした。p148

 1960年代末のエスリンは、(中略)エスリンの、起こるままにまかせるという方式の結果、多様なものが一度に進行するという結果になった。(中略)アイダ・ロルフもときどき宿泊したし、アラン・ワッツも常連の一人であった。p165

 それは1968年夏期のエスリンの主要行事になった。参加者には、ジョー・アダムス、アラン・ワッツ、ユング派の分析家ジョン・ペリーなどのアメリカの最高の権威者たちのほか、LSDの心理療法ではヨーロッパで指導的な地位を占めているスタニフラフ・グロフなどがいた。p213

 週末全期で一人あたり75ドルだったが、千人を超す人がこの運動の大物、アラン・ワッツ、バーニー・ガンサー、ウィル・シュッツ、アイダ・ロルフほか十数名、を見ようとホテルに押し寄せ、セスリンがどんなことをやっているのかを見て、聞いて、感じようとした。p215

 彼らはウェスト・エンドのホテルで終日セッションを開いた。それはニューヨーク公演の縮小版だった。ともかくエスリンの知的な部分よりも体験的なものを中心とした。ワッツは黒い禅僧の着物を着て、鐘を鳴らしお経を読み、シュッツは人びとを飛び上がらせたり叫ばせたり、床に寝かせあり腕ずもうをさせたりした。p216

 デール・カーネギーは、エストのなかでは最高の人物であり、アラン・ワッツ、フリッツ・パールズ、エイブ・マズロー、そしえサイエントロジーの創設者ロン・ハバートなどもそこに一緒に並べられていた。p249

 彼は(エアハルト)はゲシュタルト療法の本も読み何度かエスリンにも行き、フリッツに会い、シュッツのエンカウンター・ワークショップもやり、ジュリアン・シルバーマンのゲシュタルト・ワークショップもやっていた。アラン・ワッツの本も読み、サウサリートの住宅船でのワッツのセミナーにも通った。p250

 1973年の11月にエスリンはもう一人の長老を失った。アラン・ワッツだ。彼はエスリンがエスリンである前に、ビッグサー温泉のまだに最初のセミナーをやった人であり、それ以来ずっとそこでの魅力ある人物であった。ビッグサーを愛し、よく姿を現し、食堂で歓談し、あるいは浴場で海のほうに向って立ち(深夜によくやっていた)禅宗の老師のような太鼓腹を突き出して、まっ裸でマントラを唱えていた。エスリンの運営やその政策についてはあまり関心を示さなかった。特別な大義名分を主張するわけでもなかったし学派も作らなかった。正規の弟子をとるようなこともしなかった。彼の弟子になりたいなどと言うものがあればビール瓶をその人に投げつけるのだった(その前に瓶が空っぽになているのを確かめてから)。彼のグルジェフ批判は、導師についての彼の態度をよく表している。「ある人がやってきて彼の話を聞いて理解し立ち去っていく。ある人がやってきて彼の話を聞いて理解できずにそこに留まる」と。ワッツはエスリンのグロウス・センター的な、セラピー的な側面にはいつも超然としていた。友人たちはもっとからだを大事にさせようとしたが、とくに飲酒を控えるように注意したが、彼はきかなかった。「アランは、飲んでいてもいなくても、いつもアランらしくしている」とディック・プライスは言っていた。彼はいつも自分らしく振る舞っていたのだが、ある晩、心臓発作で亡くなってしまった。まだ58歳であった。p266

<6>に続く







Last updated  2009.01.13 20:58:59
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