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カテゴリ:mandala-integral
「グルジェフとクリシュナムルティ」―エソテリック心理学入門<1> 当ブログがグルジェフとクリシュナムルティ追っかけに立ち至っているのは、玉川信明の「OSHOの超宗教的世界」の巻末にあった参考文献リストに、この両巨頭の名前があったことがきっかけだった。同時進行で読書を続けているかぎり、この二人を並べて比較検討してみたくなるのは当然のことで、タイトルを見た段階では、この本の「グルジェフとクリシュナムルティ」というご大層なテーマに大変興味を惹かれた。しかし、その期待は満たされなかった。 この本、原書のタイトルは「BASIC SELF-KNOWLEDGE」である。これを「グルジェフとクリシュナムルティ」と翻訳してしまったのは、クリシュナムルティの翻訳書が多い大野純一だが、三歩譲っても名訳とはいいがたい。 本書はあくまでもエソテリック心理学”入門”であり、筆者はその限界を認識している。「原著者の序文」p1 最初の最初からエクスキューズを出しているが、これは決して謙遜ではなく、実態がついて行っていないことの自覚であるにすぎない。いやいや「入門書」だとて、素晴らしい本は他にたくさんある。「入門」だからと言って、内容が乏しいという理由にはならない。 筆者は30年以上の間---不規則に---クリシュナムルティに関心を持ってきたが、しかし最近まで彼の本質的な意味をつかむことができなかった。そこに何か「真実な」ものがあると感づいてはいたが、しかし筆者は常に、それは「真空中の真理」だと感じてきた。p203 30年以上「関心持ってき」て、「本質的」な意味をつかむことができなかったとしても、それは当然だということだろう。30年間、巨人を応援してきたとしても、自分自身が野球をできるようになるとは限らない。まったく別個なことだ。野球でいえば、トレーニングや練習に値するような「ワーク」が存在しなければ、「本質」をつかむことはできない。 クリシュナムルティに「ワーク」がないとは限らない。この本の著者にはその「ワーク」が見えなかったのだろう。だから、グルジェフに関心を移した。しかし、グルジェフのワークそのものではなく、モーリス・二コルの「グルジェフとウースペンスキーの教えに関する心理学的注解」に関心を移しただけだった。 この著者のやっていることは、「林檎とバナナ、どっちがミカン?」という謎解きのようなものだ。なんともトンチンカンなことをやっているように見える。「入門」だからって許されるものではない。それではまったく方向も力の入れ具合も間違っている。 林檎は林檎、でいいのである。バナナはバナナでいいのである。そこに共通項を見つけることは必要ないし、折衷案としてミカンをイメージする必要はない。すでにここに林檎とバナナに共通していることがある。「林檎”は”林檎」なのであり、「バナナ”は”バナナ」。つまり、「”は”」が同じなのである。英語でいえば、isでありbeingだ。著者はそれを大きく見逃している。すくなくとも、グルジェフやクリシュナムルティのような大物を相手にしている時には、のろのろしていてはだめだ。 著者は、コリン・ウィルソンやマダム・ブラバッキーまで出してくるが、やっていることは、「カボチャとメロン、どっちがスイカ?」とか、「梨とトウモロコシ、どっちが葡萄?」と、どこまで行ってもちぐはぐな迷路に入り込んでしまっている。エソテリックどころか、お庭のひよ子のかくれんぼに付き合わされているような、がっくり感を感じる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2010.05.28 20:58:21
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