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カテゴリ:agarta-david
「魁偉の残像」 グルジェフと暮らした少年時代 70歳でクリシュナムルティの本に出会う男性もあれば、11歳でグルジェフとともに暮らすことになってしまう少年もいる。この本は、その少年がグルジェフと暮らした日々の数年を、後に成人してから思い起こして記録した本である。少年時代に、自らの意志とは別なところで、とてつもない「魁偉」に出会ってしまった記録と言えば、「セカンドライフを読む。」の著書のあるティム・ゲストの「My Life in Orange: Growing Up with the Guru」を思い出す。この少年たちにとって、その出会いは人生にどのような意味を持っていたのだろうか。 子供として、私がグルジェフと暮らした数年間に、私ははどういう影響を受けたであろうか? プリオーレで、私は何を学んだであろうか? グルジェフの著書「森羅万象」三部作の、その1「ベルゼバブの孫への話」が、間違った宇宙観の破壊であり、その2「注目すべき人々との出会い」が新しい宇宙観のための素材の提供であり、その3「生は〈私が存在し〉て初めて真実となる」が、仮に未完であったとしても、新しい宇宙創造の書であったとするなら、さて、この「魁偉の残像」は、どのような位置づけになる本であろうか。 グルジェフの生前の記録は極めて少なく、ましてや暮らしを一緒にした人のまとまった記録は数冊に留まるとされる。そういった面から考えれば、グルジェフの信奉者や研究者にとっては、きわめて貴重な資料ということになるだろうが、しかし、「書」や「読書」を「ワーク」と見たグルジェフからみた場合、どのような意味合いを持ってくるだろうか。 一部研究者によれば、グルジェフ本人は自らのワークは失敗に終わったという思いを持ってこの世を去っていったのではないか、ということだ。ウスペンスキーの晩年も、必ずしも達成感に満ち溢れた境涯ではなかった。Oshoもまたウスペンスキーがグルジェフを「裏切った」時点で、グルジェフ・ワークは未完に終わったと見ている節がある。 クリシュナムルティにしてもグルジェフにしても、あるいはオーロビンドやシュタイナーなどにしても、死後にあれこれ脚色された資料をもとに私淑したりして悦にはいろうという向きもないではないが、重々、魔境に陥らないように注意しなければならない。それはなにも、彼らの話題ではなく、わが身の話題である。資料や文献に隠れて、体験をともなったリアリティを忘れるようなことがあってはならない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.01.08 02:36:46
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