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カテゴリ:agarta-david
「ミルダッドの書」 灯台にして港<1> 当ブログの数量はほぼ尽きた。本来すべきことに戻るため、おしゃべりBOXとしてのエントリーもそろそろ終わりとしなければならない。そのためにいろいろと画策してきた。90%以上成功はしたが、100%成功というわけにはいかなかった。 なぜか。読まれるべき本があと数十冊ある。語りきれない本たちがその中に含まれている。メモもせず、そのまま終わりとするのか、なんらかの目印を残しておくべきか。あるいは、いままでに読みかけてきた本の最後を閉じていない頁もある。あらたに加えられた何冊かも、実はかなり気になっている。しかし、よくよく考えてみれば、このような状態は、どの段階でも起こりうるだろう。これで完全、これで終わりとはならないはずだ。 だからこそ、やはり、ここはここで終わりとする。しかし、いかにも始末が悪いものものあるので、すこしは延長することとした。そのために、いままで「Back Data」として、21のカテゴリの中に数えてこなかった「がらくた部屋」を活用し、新たに名称も「Back Yard」として、避難回避的に、そちらに付記しておくことにする。 つまり、「Back Yard」はとくに108のエントリーを目指さない。現在35のガラクタが入っているが、これは、ひとつのエントリーが二つに分割されて、行き場所のなくなったものたちや、その時々の概念からはみでてしまった総記的な部分が収容されている。だから、この新たなる「Back Yard」は、その用事が済めば、サドンデスで終了する。あるいは、将来的な突発的なエントリーを収容するために、すこしは余白を残しておく必要がある。 そしてまた、自分でもどうなるかわからないまま放置されてきた「21th Category」には、はいるべきエントリーは登場しないのではないか、という予感が湧いてきた。だから、こちらは永遠の空白として記録されることになるのではないだろうか。 つまり実質的な「21th Category」は、「Back Yard」が担うこととなり、「21th Category」と称されるものは、実質的には「22th Category」となって、その存在を示し続けることになるのではないだろうか。ここから、当ブログは、いつ訪れるか分からないサドンデスに向って、急激に減速し始める。しかし、そう長いことではない。せいぜい長くて108-35=で残り70というところだろうが、それはスペースの問題であって、それほどにはいかないだろう。 残されているテーマはいくつかある。 1)それぞれの残り後半の各カテゴリの「再読すべき3冊」リストがまだ書かれていない。これだけで、約10エントリーが必要だ。 2)それにともなう「曼荼羅」の作成も1~2あるだろう。 3)ブログの中で、読みかけの本がいくつかある。いかにもふんぎりが悪いので、まとめておかなくてはならない。これが10冊ほどあるだろう。 4)読むきっかけのないまま、いつまでも気になっているシリーズがいくつかある。例えばドンファン・シリーズとか、キューブラ・ロスの何十冊とか、Osho・Zenシリーズ英語版とか、あるいは、山となったクリシュナムルティ本・・・・。これらは全部手元ににありながら、私の視線を待っている。しかし、これらを加えたら、残り70のエントリーでは済まなくなるだろう。だから、読まれるべき本だが、読まれずに終わった、という本として記録されるべき本もあっていいのだ、という理解をもつことにしよう。 5)ネット空間のブログであるかぎり、双方向であるべきであったが、私は、ある時点から、モノローグで行くことに決定してしまった。だから、せっかくの書き込みやトラックバックをもらっても、あえて続けることをしなかった。特に、当ブログでとりあげた本の著者本人からの反応があった時には、どぎまぎしたが、大変うれしかったし、ブログというものの力を感じた。その人々への、最後の挨拶も残っている。5つくらいのエントリーが必要だろう。 6)ネット空間ということで、最終的な自分の意見は誤魔化してしまった部分は多くある。個人情報がどのように処理されるのかわからないので、ぼかしてしまったのだが、これは多分このままぼかしたままで終わろうと思う。だが、決して意見を持っていないのでもなく、ぼかしたままが最善だと思っているわけでもない。ただ、ブログという形態の限界(あるいは特性)ゆえだが、これも、もし「弁解」するつもりが湧いてくれば、1~2のエントリーがあってもいいだろう。 7)本来は、当ブログへの訪問者たちのブログについても、もっと語り合うべきだった。私は私のことを語りすぎた。その謝罪のために、最後の最後のエントリーは使われることになるだろう。
ミルダッド・・・・・私があなたがたに知ってもらいたい沈黙は、そこで存在が非存在となり、非存在が存在となるかぎりない広がりだ。その沈黙は、畏怖させる虚空だ。そこではすべての自己が書かれては消される。そこには”それ自身”以外何もない。 あなたは、この虚空、この広がりを沈黙の瞑想のうちに渡り切らなければ、あなたの存在がいかに現実なのか、また非存在がいかに非現実的なのかを知ることはない。あるいはまた、あなたの現実がいかにすべての<現実>と固く結びついているかを知ることもない。 あなたがたが古く窮屈な皮を脱ぎ捨てて、束縛も拘束もされずに動き回れるようになるために、私はあなたがたがに、この<沈黙>のうちにを徘徊してもらいたい。 その<沈黙>へと、あなたがたの心労や恐怖、情欲や欲求、羨望や煩悩を追いやってもらいたい。そうすればそれらは一つまた一つと消えて行き、あなたがたの耳はそれらの絶えざる叫びから解放され、あなたがたの脇腹はそれらのかける鋭い拍車の痛みから免れるだろう。 その<沈黙>へと、この世の弓矢を投げ捨ててもらいたい。その弓矢であなたがたは、満足と喜びを狩猟しようと願っているが、実際には不安と悲しみ以外に何も狩猟できない。 私は、その<沈黙>の中であなたがたに、暗闇と息詰まる自己の殻から、光へと、そして<自己>の自由な空気へと、這い出てもらいたい。 私があなたがたに薦めるのは、語り疲れた舌の単なる一時休止ではなく、このような<沈黙>である。 私が薦めるのは、ならず者や悪党の恐怖に満ちた沈黙ではなく、実り豊かな大地の沈黙。 私が薦めるのは、卵を温める雌鳥の忍耐強い沈黙であり、別の雌鳥のように、卵を産んだことをガーガーと鳴きわめくことではない。先の雌鳥は、21日間、柔毛(にこげ)に覆われた自分の胸と翼に<神秘の手>が奇跡をもたらすと信じて沈黙のうちにじっと待つ。後の雌鳥は、小屋から飛び出し、自分が卵を産んだことを騒々しくわきたてる。 仲間たちよ、わめきたてる美徳に気をつけなさい。恥に口をつぐむのと同様に、栄誉にも口をつぐみなさい。わめきたてる栄誉は、沈黙する不名誉よりも悪い。騒々しい美徳は、押し黙る不正よりも悪い。 多くを語るのをやめなさい。語られた千の言葉のうち、真に語られる必要があったのは一語、たった一語だけかもしれない。他の言葉は、精神を曇らせ、耳を詰まらせ、舌を疲れさせ、その上心を盲目にしているに過ぎない。 真に語られる必要がある言葉を語るのはなんと難しいことだろう! 書かれた千の言葉のうち、真に書かれる必要があったのは一語、たった一語だけかもしれない。他はインクと紙の浪費であり、光の翼で翔ぶ時間を与える代わりに鉛の足を引きずる時間を与える。 真に書かれる必要がある言葉を書くのは、なんと、ああ、なんと難しいことだろう!p119
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Last updated
2010.05.29 15:51:38
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