<5>よりつづく

「エスリンとアメリカの覚醒」 <6>人間の可能性への挑戦
ウォルター・トルーエット・アンダーソン /伊東博 1998/09 誠信書房 単行本 336p
その時地平線の上に大きく姿を表してきたのがバグワン・シュリ・ラジニーシだった。彼の弟子をよく見かけるが、オレンジ色の衣装を着て、ラジニーシの写真の入ったネックレスを身につけ、ラジニーシから与えられたあたしい名前を持っていた。ラジニーシは、パイオニアだった。東洋の精神的リーダーとして、その教義のなかに西洋の方法や考え方を統一した最初の人であった。実際には西洋文化はさまざまな形でインドには広がっていた。ガンジーはロンドンの神智学者の影響を受けていたし、オロビンドは西洋の哲学や心理学を研究していた。しかし、ラジニーシほどに広く折衷した人はいなかった。スーフィー教の比喩を引用し、ウィルヘルム・ライヒについて長々と話した。プーナの学園の勉強は、瞑想と講義だけではなかった。ゲシュタルト療法やエンカウンター・グループも含まれていた。単なるアシュラムではなかった。それはインドのグロース・センターだったのだ。
プライスはラジニーシの本を何冊か読み、講演のテープを聞き、そのなかに大事なものがあることを知った。ラジニーシはアメリカのオスカー・イチャゾのような多種類の演習を用意していた。イスラムの秘境ダルヴィーシュの(踊りながら)動きまわる瞑想があった。標準的なラジニーシの瞑想は、跳び上がる、マントラを唱える、踊る、ときにはある姿勢のまま凍りつく、最後には床の上で深い休憩の時間を楽しむといったものであった。部屋いっぱいのひとがこうした瞑想をしているのを見ていると、精神主義について抱いていた最悪の先入観がやはり本当なのだという気がするのだが、実際にやった人は奇妙な感動を覚えるのだ。かなりの運動になったと。瞑想の情動を開放と身体運動に結びつけるというラジニーシの基本的な考え方は素晴らしい発想だとプライスは考えた。 p296
時は1977年、今から32年前の話だから、ひとつもふたつも昔々のお話となってしまった。この年、立川武蔵もプーナのOSHOアシュラムを訪問していたし、若輩わたしくしめもちゃっかりグループ・セラピーに参加したり、瞑想したりしていたのだった。1985年11月、プライスは、エサレンの近くにあるホットスプリング渓谷を散歩中に、偶然なる落石により事故死したという。合掌。
この本のエッセンスは、はかり知れないものがあり、参考するとなると、全文引用しないといけないほどだ。いまや輝かしい歴史となってしまったエサレンだが、トランスパーソナル心理学の歴史には欠かせない1頁を飾ってくれているということになる。現在のエサレンがどうなっているのか、知らないが、かつての鬱勃たるエネルギーは霧消してしまった可能性が強い。
<7>につづく