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カテゴリ:バック・ヤード
<2>よりつづく 先日、書店で最近刊のこの増補版を手にして、びっくりしてしまった。1987年に出されたこの本が増補されて再刊されたことは知っていたが、この増補された部分が、実は「法華経」にまつわる話だったのだ。なるほど、そうであるべきだろう。そうでなくてはならない、と納得した。 そこで、ちょっぴり貯まった楽天ポイントで一部充当してようやくこの本を我がものとすることができた。これからチラチラ、ゆっくりめくっていってみよう。 つい先日、私の国・日本という東京の秋葉原という、今「オタク文化」といって世界的にも注目を集めている地区で、一つの悲惨な事件が起こりました。それは、自分に絶望し、世の中に敵意を抱いた孤独な青年が、借りてきたトラックを休日を楽しむ人々の中に暴走させ、多くの人々を死傷させた、という事件でした。しかし、その事件の報道に接したとき、私は本当にそう思ったものです。その青年が、この「法華経」の<願成就>ということの意味を知っていたら、本当にそういうことに思いを廻らせていたら、彼はこの様な事件を起こさずに済んだのではないか、と・・・・・。 p55 当ブログが、ひょんなことで読書マラソンにでて1500冊の本に巡り合ったとして、さて、最後の最後、一冊何を残しますか、と質問された場合、その答えは出るはずがない。それではターゲットが広すぎる。もっと的を絞って、当ブログのテーマが結局「アガータ:『彼』以降やってくる人々」というものに定着したと仮定して、その答えはでましたか、と質問されたら、今の私なら、迷いなく、この一冊を残す。 この人の「文献学」というものは徹底しているので、一凡読者にもなりえない私には、その多岐にわたる引用文を読み解くことはあたわない。だが、すくなくとも、その著者の姿勢が、結局、当ブログが「読書ブログ」としてページ数のあちこちをメモしつづけていることにつながるところにも、なにかの縁を感じていることは確かだ。 この津田真一という人は、なにかの「行」をやっておられるのかどうかは知らないが、すくなくとも、本やブログの世界は、必ずしも直接的に「行」とつながるものではない。いきおい、本やブログで「できる範囲」のことということになれば、このような形になるのは、きわめて妥当であると思われる。 そして、「文献学」などと自ら卑下してみせたりもするが、実は、津田真一という人を貫いているのは、「直観」だ。「自ら」の「直観」に、第一の、絶対の、信頼をおく。そして、この直観を傍証するためだけにあまたの文献が活用されている、と言っても過言ではない。 そして、この「増補」された部分が著者によって書かれたのは2008年6月28日だった。当ブログで言えば、 「Automobile Quarterly」 、「The Black Kimono Rolls Royce」 、「エスリンとアメリカの覚醒 <2>」 、「Opulence」 などについてメモしていた日であった。あの日、著者はこのような文をしたためておられたのだ、と思いを馳せることによって、さらにこの本のリアリティが高まる。 8月8日に北京オリンピックが開催され、前後して「チベット問題」に、にわかに再フォーカスした当ブログが、8月22日あたりから「裸形のチベット」を読み進めるなかで、この「反密教学」の存在に気づいたのは、さらにおそかった。すでに絶版になっていたこの本を求めて、新しい大学図書館を開拓して、ようやく手にしたのは、10月5日になっていた。この数か月のタイムラグを、大きいと思うか、ごくごくわずかと思うか、これからの展開次第だが、同時代性、同じ時代、同じ国、同じ地球に生きている、という感覚で言えば、当ブログにとっては、まことに申し分のない同時代性だ。しかもそのころ、この増補版がようやくでたのであったことも、私の何かを刺激する。 もし、「借りてきたトラックを休日を楽しむ人々の中に暴走させ、多くの人々を死傷させた」、「自分に絶望し、世の中に敵意を抱いた孤独な青年」の一人であったかもしれないこの私が、まがりなりにも、その行為にでなかったとしたら、その理由は、実に、「『法華経』の<願成就>ということの意味」に思いを廻らせていたからかもしれない、と自戒する。 「アガータ:『彼』以降やって来る人々」という私なりの直感から、アガータという言葉を抽出し、その源を「アガルタ」にもとめようとしても、この西洋的神智学流れ現代バージョンは、私に「正」解をいまだに伝えてはくれない。また、チベット密教の「秘められた」系譜をたどったとしても、本当に私が求めているアガータではなさそうなのだ。だから、私のアガータは、いまだに私のアガータでしかない。 そんな中にあって、ほぼ唯一といっていい薄明がこの本だ。一つのカテゴリを108エントリーと定め、21のカテゴリをもって、とりあえずの当ブログの「締め」とした場合、当ブログに残されているのは、あと40エントリーのみ。この中に、当ブログの結論めいたもの残すとすれば、この「反密教学」一冊に限られた、と言ってもほぼ間違いない。 私の法華経理解は、体験的ではあるが、極めて単層なものである。そこから連想するのは「南無妙法蓮華経」という御題目であったり、行者日蓮であったりと、きわめて限定的なものであった。ところがこの本の著者において、初めて、浄土理解としての親鸞へとのルートがつながり始めたというべきだろう。親鸞は当ブログの宿題でもあった。 なにはともあれ、サンヴァラ系タントラと法華経のシナジー、そしてそれにつらなるいくつかのなにごとかに、当ブログなりの結論めいたものが見えてくるとすれば、当ブログのマラソンも全く意義なきものであった、ということでもあるまい。 つづく お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.02.11 22:21:28
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